2017年01月18日
鍋島直正公『診察御日記』その1
鍋島直正公『診察御日記』その1
大阪市史編纂所に行ってきました。
なぜかというとそこに医学史の碩学故中野操博士の所蔵文書が収められており、そのなかに『御診察日記』があるからです。
『御』とあるからえらい人です。
誰の診察日記かというと、鍋島直正さんです。
いつか古書店にでたものを収集家の中野博士が購入し、博士の死後、大阪市史編纂所へ寄贈されたもののようです。
『御診察日記』は、慶応3年の京都での下痢の記録から始まって、明治元年5月の京都での下痢、明治2年4月の東京在府中の下痢、明治3年の熱海療養中の眩暈や頭痛ほか嘔吐などの治療記録、明治4年正月から同18日に亡くなるまでの毎日の診療記録です。
享年58歳でした。
その最初の記事を訳しておきます。
慶応三年卯六月下旬暑□□テ御旅行、京都ノ妙顕寺ニ御寓居七月三日卒然御暴瀉水様ノ便ヲ下利(痢)スル事、六、七行、御嘔吐五、六次、御手足微冷少シク冷汗ヲ出ス、御顔色蒼白微ニ皺襞ヲ生シ御脈微細数御平脈三十八九度、今七十皮ニ至ル 夜ニ至テ御熱発頗渇。
鹿角粟売煎ニ縷多扭謨十八滴ヲ加、熱飯蒸□(氵に日羽)毛布ヲ以テ手足ヲ摩擦ス、
京都の妙顕寺に避暑にでかけたときに、暴瀉病(コレラ)のような激しい下痢と嘔吐に見舞われました。
京都の医師新宮凉民(新宮凉庭の子、蘭方医)らの診察をうけ、一段落するのですが、この日以来、直正の体はむしばまれていく一方でした。
明治元年、2年、3年と下痢と嘔吐を繰り返し、明治4年正月の最後を迎えます。
この『御診察日記』は、直正の死に至るまでの診察記録で、伊東玄朴や戸塚文海、あるいはボードウインやヨングハンスなども治療にあたっていることがわかります。
このあとの記録は、佐賀医学史会報へはまとめて報告するつもりですが、折に触れて、ここでも紹介できたらと考えています。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月17日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
大阪市史編纂所に行ってきました。
なぜかというとそこに医学史の碩学故中野操博士の所蔵文書が収められており、そのなかに『御診察日記』があるからです。
『御』とあるからえらい人です。
誰の診察日記かというと、鍋島直正さんです。
いつか古書店にでたものを収集家の中野博士が購入し、博士の死後、大阪市史編纂所へ寄贈されたもののようです。
『御診察日記』は、慶応3年の京都での下痢の記録から始まって、明治元年5月の京都での下痢、明治2年4月の東京在府中の下痢、明治3年の熱海療養中の眩暈や頭痛ほか嘔吐などの治療記録、明治4年正月から同18日に亡くなるまでの毎日の診療記録です。
享年58歳でした。
その最初の記事を訳しておきます。
慶応三年卯六月下旬暑□□テ御旅行、京都ノ妙顕寺ニ御寓居七月三日卒然御暴瀉水様ノ便ヲ下利(痢)スル事、六、七行、御嘔吐五、六次、御手足微冷少シク冷汗ヲ出ス、御顔色蒼白微ニ皺襞ヲ生シ御脈微細数御平脈三十八九度、今七十皮ニ至ル 夜ニ至テ御熱発頗渇。
鹿角粟売煎ニ縷多扭謨十八滴ヲ加、熱飯蒸□(氵に日羽)毛布ヲ以テ手足ヲ摩擦ス、
京都の妙顕寺に避暑にでかけたときに、暴瀉病(コレラ)のような激しい下痢と嘔吐に見舞われました。
京都の医師新宮凉民(新宮凉庭の子、蘭方医)らの診察をうけ、一段落するのですが、この日以来、直正の体はむしばまれていく一方でした。
明治元年、2年、3年と下痢と嘔吐を繰り返し、明治4年正月の最後を迎えます。
この『御診察日記』は、直正の死に至るまでの診察記録で、伊東玄朴や戸塚文海、あるいはボードウインやヨングハンスなども治療にあたっていることがわかります。
このあとの記録は、佐賀医学史会報へはまとめて報告するつもりですが、折に触れて、ここでも紹介できたらと考えています。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月17日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月17日
鍋島直正公『診察御日記』その2
鍋島直正公 『診察御日記』その2
直正は明治元年5月京都の郡山藩邸にいた。
俄に下痢があって痢病となった。
黄褐色の便には、赤色、白色、桃花色の粘液が混じって、脈は70度に至った。
緩和剤とヒヨス(麻酔薬)を兼用した。
5,6日を経て熱がようやく下がってきたけれども、便の状態は変わりがなく下痢状態であった。
そこで京都の蘭方医新宮凉民を呼んで診断を請うた。
さらに越前侯の侍医である岩佐玄圭もまた越前公の命をうけて診察に来た。
薬は煎じ薬の包摂剤中に大黄を加えた。
甘汞2ゲレイン、モルヒネ3分の1ゲレインの粉薬を調合した。
甘汞を与えるのは2日半でやめたが、まだ飲食も進まなかった。
※甘汞は塩化第一水銀で殺虫剤に用いた。
※モルヒネは鎮痛薬、ゲレイン(グレーン)はオランダ語で小麦1粒の重さ。
※1グレーンは7000分の1ポンドで、64.7989ミリグラム。
その後も病状はあいかわらずで6月中旬に疲労が倍加した。
郡山邸を出て、上長者町の私邸に転居した。
鹿角格綸僕を煎じ、或いはキニーネホミカエキスの丸剤を調合した。
※鹿角格綸僕は鹿角のようなアフリカ大陸東南のモザンビーク産のコキュリス、パルマチュスの根のことだろう。
※キニーネホミカエキスとはストリキニーネを含んだ食欲増進剤・胃腸薬であるホミカ(馬銭、マチン、インド原産)のエキスのこと。
一、6月下旬に至り下痢がすこしづつ回復するといえども、食欲がなく、はなはだ衰弱が激しいので、アメリカ軍艦の医師某を大阪より招いて診察を請うた。
処方は、キニーネ溶液を1食匙づつ、日に3回用いた後、ポールト酒1食匙を飲んだ。ほかに保魯福角膜阿芙蓉液及び沃度鹻白糖の合薬水剤を調合したが、その方はつまびらかではない。
※ポールト酒はポートワイン・阿芙蓉はアヘン・沃度はヨード・鹻は塩基。
一、上の諸薬を連用したところ、7月上旬に至り、下痢がようやく静まり、旺盛になったので、同月中旬に天皇よりおいとまを賜り、ご帰国になった。
※以上が明治元年6月の発病とその治療の経過である。。
※診療にあたった新宮凉民は新宮凉庭の子で蘭方医。
※岩佐玄圭は、相良知安ととともに医学校取調係としてドイツ医学導入に尽力した松平越前守の侍医岩佐純のこと。
※当代きっての名医が、西洋新薬を用いて懸命の治療にあたっていることがわかる。
※このときは一ヶ月ほどで鎮静したが、直正はこの後も、痢病に苦しむことになる。
※直正の診療に使われた薬の図です。
※写真は薬物概論より。
①格綸僕の根の図です。

②マチンの図です。

※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月29日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
直正は明治元年5月京都の郡山藩邸にいた。
俄に下痢があって痢病となった。
黄褐色の便には、赤色、白色、桃花色の粘液が混じって、脈は70度に至った。
緩和剤とヒヨス(麻酔薬)を兼用した。
5,6日を経て熱がようやく下がってきたけれども、便の状態は変わりがなく下痢状態であった。
そこで京都の蘭方医新宮凉民を呼んで診断を請うた。
さらに越前侯の侍医である岩佐玄圭もまた越前公の命をうけて診察に来た。
薬は煎じ薬の包摂剤中に大黄を加えた。
甘汞2ゲレイン、モルヒネ3分の1ゲレインの粉薬を調合した。
甘汞を与えるのは2日半でやめたが、まだ飲食も進まなかった。
※甘汞は塩化第一水銀で殺虫剤に用いた。
※モルヒネは鎮痛薬、ゲレイン(グレーン)はオランダ語で小麦1粒の重さ。
※1グレーンは7000分の1ポンドで、64.7989ミリグラム。
その後も病状はあいかわらずで6月中旬に疲労が倍加した。
郡山邸を出て、上長者町の私邸に転居した。
鹿角格綸僕を煎じ、或いはキニーネホミカエキスの丸剤を調合した。
※鹿角格綸僕は鹿角のようなアフリカ大陸東南のモザンビーク産のコキュリス、パルマチュスの根のことだろう。
※キニーネホミカエキスとはストリキニーネを含んだ食欲増進剤・胃腸薬であるホミカ(馬銭、マチン、インド原産)のエキスのこと。
一、6月下旬に至り下痢がすこしづつ回復するといえども、食欲がなく、はなはだ衰弱が激しいので、アメリカ軍艦の医師某を大阪より招いて診察を請うた。
処方は、キニーネ溶液を1食匙づつ、日に3回用いた後、ポールト酒1食匙を飲んだ。ほかに保魯福角膜阿芙蓉液及び沃度鹻白糖の合薬水剤を調合したが、その方はつまびらかではない。
※ポールト酒はポートワイン・阿芙蓉はアヘン・沃度はヨード・鹻は塩基。
一、上の諸薬を連用したところ、7月上旬に至り、下痢がようやく静まり、旺盛になったので、同月中旬に天皇よりおいとまを賜り、ご帰国になった。
※以上が明治元年6月の発病とその治療の経過である。。
※診療にあたった新宮凉民は新宮凉庭の子で蘭方医。
※岩佐玄圭は、相良知安ととともに医学校取調係としてドイツ医学導入に尽力した松平越前守の侍医岩佐純のこと。
※当代きっての名医が、西洋新薬を用いて懸命の治療にあたっていることがわかる。
※このときは一ヶ月ほどで鎮静したが、直正はこの後も、痢病に苦しむことになる。
※直正の診療に使われた薬の図です。
※写真は薬物概論より。
①格綸僕の根の図です。

②マチンの図です。

※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月29日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月16日
鍋島直正公『診察御日記』その3
『診察御日記』その3
明治二年にも、直正は下痢で苦しむことになった。
明治二年巳四月ヨリ東京御在府
一、五月初旬ヨリ酸敗御下痢シ淂日ニ三、四行或ハ五、六行御少腹ヨリ胃部ニ延テ攣痛ヲ覚フ御食機乏シク少シク御熱アリ、左ノ諸薬ヲ用ヒ十餘日ヲ歴テ全ク癒
護謨煎中老利児水ヲ加フ、或ハドーフルス發汗散及ヒ謨爾比捏等愈后、西瑪爾抜皮煎ヲ持重ト雖トモ苦味ニ御困究故ニ格綸僕煎加甘硝石精等ヲ以ス

直正は、明治2年5月初旬より下痢になり、腹や胃に攣痛を覚えるようになって食欲も減退したため、以下の諸薬を用いて10餘日たつと快癒したという。
その薬はゴム煎中に老利児水(ローレル水、オリーブ油か)かまたはドーフルス(アヘン・トコン散、痛み止めや下痢止め薬)を加え發汗散やモルヒネを使った。
癒えてからは、西瑪爾抜皮煎’(不明)を用いたが苦みをいやがるので、格綸僕煎に甘硝石精を加えて用いた。
※甘硝石精は、アルコールに硝酸を少量加えた亜硝酸エチルエステルのことで、英語ではsweet spirits of nitreという(板垣英治「甘硝石精とは」『北陸医史』34、p26~30、2012)。シーボルトの持参した薬に甘硝石精があり、よく蘭方医には用いられた。

さて、同年6月にも同様の症状を発した。
が、今回は前に比べれば軽く、異なるところは聖京倔状があるところが異なるとしている。
聖京倔とは聖京倔性炎とか聖京倔眼焮衝などの用語からみてなにか感染した状態のことと推測するが不明。
ご教示いただければと思う。
このときは2週間ほどで全癒した。
前回と同様の薬のほか、強壮収斂のために、キニーネ、タンニネ、ホミカエキス、牛胆、橙皮末等の丸剤などや龍動鉄チンキなどを用いた。
同年10月初旬に軽い聖京倔に感冒をひいて、咳がやまず一週間ほどして桃花色の血線のある痰を吐いた。
しかし、毎回、このような痰を吐くのではなく、時々であった。
左胸などに痛みを覚えるが、熱はなく飲食も普通なのでとくに表沙汰にはしなかった。
諸薬を加えて、運動をすることで、翌年2月にはすこぶる元気になったという。
ところが、翌年になって、とうとう最後の大病を発することになった。
※直正は、明治2年4月から東京勤務となり新政府の要人としての活動を開始した。
同年の政治動向を見ておくと、
明治2年6月6日には、蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用して、その任にあたらせた。
同年7月13日には初代開拓使長官に就任したが、病気のためもあり、蝦夷地へ赴任することなく、7月22日に島義勇を開拓使判官に就任させた。
島義勇は、10月12日、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を本府と決めて「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き、工事を進めた。
直正はその間の8月16日に岩倉具視と同じ大納言に転任し、開拓使の長官には東久世通禧が就任するが、札幌建設費用を巡って島善勇は翌年1月に解任されることになる。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月29日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
明治二年にも、直正は下痢で苦しむことになった。
明治二年巳四月ヨリ東京御在府
一、五月初旬ヨリ酸敗御下痢シ淂日ニ三、四行或ハ五、六行御少腹ヨリ胃部ニ延テ攣痛ヲ覚フ御食機乏シク少シク御熱アリ、左ノ諸薬ヲ用ヒ十餘日ヲ歴テ全ク癒
護謨煎中老利児水ヲ加フ、或ハドーフルス發汗散及ヒ謨爾比捏等愈后、西瑪爾抜皮煎ヲ持重ト雖トモ苦味ニ御困究故ニ格綸僕煎加甘硝石精等ヲ以ス

直正は、明治2年5月初旬より下痢になり、腹や胃に攣痛を覚えるようになって食欲も減退したため、以下の諸薬を用いて10餘日たつと快癒したという。
その薬はゴム煎中に老利児水(ローレル水、オリーブ油か)かまたはドーフルス(アヘン・トコン散、痛み止めや下痢止め薬)を加え發汗散やモルヒネを使った。
癒えてからは、西瑪爾抜皮煎’(不明)を用いたが苦みをいやがるので、格綸僕煎に甘硝石精を加えて用いた。
※甘硝石精は、アルコールに硝酸を少量加えた亜硝酸エチルエステルのことで、英語ではsweet spirits of nitreという(板垣英治「甘硝石精とは」『北陸医史』34、p26~30、2012)。シーボルトの持参した薬に甘硝石精があり、よく蘭方医には用いられた。

さて、同年6月にも同様の症状を発した。
が、今回は前に比べれば軽く、異なるところは聖京倔状があるところが異なるとしている。
聖京倔とは聖京倔性炎とか聖京倔眼焮衝などの用語からみてなにか感染した状態のことと推測するが不明。
ご教示いただければと思う。
このときは2週間ほどで全癒した。
前回と同様の薬のほか、強壮収斂のために、キニーネ、タンニネ、ホミカエキス、牛胆、橙皮末等の丸剤などや龍動鉄チンキなどを用いた。
同年10月初旬に軽い聖京倔に感冒をひいて、咳がやまず一週間ほどして桃花色の血線のある痰を吐いた。
しかし、毎回、このような痰を吐くのではなく、時々であった。
左胸などに痛みを覚えるが、熱はなく飲食も普通なのでとくに表沙汰にはしなかった。
諸薬を加えて、運動をすることで、翌年2月にはすこぶる元気になったという。
ところが、翌年になって、とうとう最後の大病を発することになった。
※直正は、明治2年4月から東京勤務となり新政府の要人としての活動を開始した。
同年の政治動向を見ておくと、
明治2年6月6日には、蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用して、その任にあたらせた。
同年7月13日には初代開拓使長官に就任したが、病気のためもあり、蝦夷地へ赴任することなく、7月22日に島義勇を開拓使判官に就任させた。
島義勇は、10月12日、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を本府と決めて「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き、工事を進めた。
直正はその間の8月16日に岩倉具視と同じ大納言に転任し、開拓使の長官には東久世通禧が就任するが、札幌建設費用を巡って島善勇は翌年1月に解任されることになる。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月29日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月15日
鍋島直正公『診断御日記』その4
『診断御日記』その4
直正は明治3年4月に熱海に療養にでかけた。
とくに効果はなかったが、元気であった。
しかし、帰りの船の動揺によって気分が悪くなり、眩暈や頭痛を発した。
薬は、局部に水蛭を貼り、ヘリチネ油にモルヒネを混ぜた剤を塗擦した。
5,6日して著しき患害はなかったが、すっぱい嘔吐を発した。
スピスミュット或いはプロイス散などを用いるといえども効なし。
ここにおいて毎朝用いる牛乳をしばらく休止した。
この炎暑のなかで腐敗しやすいからである。
以後、嘔吐が減った。

一、5月下旬の霖雨湿潤の候にあたって、微聖京倔に感冒あり、その症状は頭痛強く熱ありて乾いた咳を発す。
食事は1日2回、便は普通で、緩和剤を服用して三、四日後には熱も下がり、咳嗽のみとなった。
薬は緩和発表剤と咳止めの薬、モルヒネをヘリチネ油にまぜて、のどに塗ったが効果はなかった。
一、6月下旬に発熱が激しく、食欲も自らいらないとして、胃中に多く酸っぱい状態を醸し、そのため咳が倍加し、1日1回或いは2回嘔吐した。
但し、稀液を吐くのみ、食事も味わいなく量も大いに減じた。
しかし、呼吸は普通で胸痛もなく、夜は安静にしている。
制酸剤に軽量の吐根、モルヒネを互いに用いて数日ののちに嘔吐も減じたのだが、咳は去らず、痙攣様の発作が日を隔てて軽重あり。
以後、動揺の咳と発作に苦しむことになる直正であったが・・

※1水蛭によって悪血を吸い、血の新鮮な循環を促す療法。
※2ヘリチネ油は不明。『倉富勇三郎日記』(国書刊行会、2012年の大正8年3月9日記事、京都大学永井和研究室の成果)に、「医坂田稔ヲ招キ之ヲ診セシム。九時頃坂田来リ。十時ヘリチネ油ヲ服用ス。十二時下痢ス。体温三十八度一分ニ進ム。今夜ヨリ内子ヲシテ別室ニ寝セシム。予カ病流行性感冒ノ疑アルヲ以テナリ」とあるように、下痢症状に効くとされ、大正期まで使われていた。
※3スピスミュット・・不明。
※4プロイス散・・不明。
※牛乳を飲んでいたのは、いかにも直正らしい。
少し長くなるのと、薬学概論などでも薬が調べきれていないので、今回はここまで。
使われている薬スピスミュットやプロイス散などについて、どなたかご教示いただければと思う。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月31日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
直正は明治3年4月に熱海に療養にでかけた。
とくに効果はなかったが、元気であった。
しかし、帰りの船の動揺によって気分が悪くなり、眩暈や頭痛を発した。
薬は、局部に水蛭を貼り、ヘリチネ油にモルヒネを混ぜた剤を塗擦した。
5,6日して著しき患害はなかったが、すっぱい嘔吐を発した。
スピスミュット或いはプロイス散などを用いるといえども効なし。
ここにおいて毎朝用いる牛乳をしばらく休止した。
この炎暑のなかで腐敗しやすいからである。
以後、嘔吐が減った。

一、5月下旬の霖雨湿潤の候にあたって、微聖京倔に感冒あり、その症状は頭痛強く熱ありて乾いた咳を発す。
食事は1日2回、便は普通で、緩和剤を服用して三、四日後には熱も下がり、咳嗽のみとなった。
薬は緩和発表剤と咳止めの薬、モルヒネをヘリチネ油にまぜて、のどに塗ったが効果はなかった。
一、6月下旬に発熱が激しく、食欲も自らいらないとして、胃中に多く酸っぱい状態を醸し、そのため咳が倍加し、1日1回或いは2回嘔吐した。
但し、稀液を吐くのみ、食事も味わいなく量も大いに減じた。
しかし、呼吸は普通で胸痛もなく、夜は安静にしている。
制酸剤に軽量の吐根、モルヒネを互いに用いて数日ののちに嘔吐も減じたのだが、咳は去らず、痙攣様の発作が日を隔てて軽重あり。
以後、動揺の咳と発作に苦しむことになる直正であったが・・

※1水蛭によって悪血を吸い、血の新鮮な循環を促す療法。
※2ヘリチネ油は不明。『倉富勇三郎日記』(国書刊行会、2012年の大正8年3月9日記事、京都大学永井和研究室の成果)に、「医坂田稔ヲ招キ之ヲ診セシム。九時頃坂田来リ。十時ヘリチネ油ヲ服用ス。十二時下痢ス。体温三十八度一分ニ進ム。今夜ヨリ内子ヲシテ別室ニ寝セシム。予カ病流行性感冒ノ疑アルヲ以テナリ」とあるように、下痢症状に効くとされ、大正期まで使われていた。
※3スピスミュット・・不明。
※4プロイス散・・不明。
※牛乳を飲んでいたのは、いかにも直正らしい。
少し長くなるのと、薬学概論などでも薬が調べきれていないので、今回はここまで。
使われている薬スピスミュットやプロイス散などについて、どなたかご教示いただければと思う。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年7月31日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月14日
鍋島直正公『診療御日記』その5
『診療御日記』その5
ボードウインの診察
(明治3年)8月中旬頃より、夜に発作と嘔吐も従って多くなった。
このため全身が日々に衰弱した。
滋養の御食料
・御薬は健胃チンキ(キナと橙皮、肉桂等の諸薬を浸漬した品)
・磠砂・カーネル精、或いは希塩酸、番木越鼈エキス
・キニーネ、乳酸鉄、牛胆等の品
※1磠砂・・塩化アンモニウム、有毒、肝・脾・胃などの薬
※2カーネル精・・アブラヤシオイル
この際にいろいろ服用あれども咳嗽は鎮まらず、衰弱は倍加していく。
昨年(明治2年)4月より、東京在府中、伊東大典医(伊東玄朴)が時々、診察に訪れて、緩急により隔日、あるいは五、六日隔てて拝診にきた。
よって薬も伊東氏の指示どおりであった。
一、九月十七日、第十字蘭医「抱独伊(ボードウイン)」参邸拝診。
此ヨリ前、相良弘庵より、抱独伊、東京ニ来ルヲ報知ス、故ヲ以弘庵ヲ来診ヲ乞フ。
抱氏ハ長崎以来ノ御知己ナリ。
昨年春、大阪ニ於テ、御一診後、今又偶、東京ニ来テ初テ拝診御容姿ノ衰ルヲ視テ大ヒニ駮(驚・おど)ロケリ。
大石良乙通弁。
9月17日に、オランダのボードウインが診察にやってきた。
相良弘庵(相良知安)がボードウインが東京にきていることを知らせてくれた。
弘庵とボードウインは長崎以来の知り合いなので、来診を願った。
昨年の春、ボードウインは一度大阪で診察をしたことがあるが、そのときに比べて(直正が)大きく衰弱していたので大いに驚いた。
通訳は大石良乙がつとめた。
9月19日にボードウインを呼び、伊東大典医が通弁し、その処方は左のようであった。
葛刺歇安私模斯煎(カラヘアンスモス) 5℥(5オンス)
右モス半銭、熱湯7オンスをもって煎じ、5オンスの液を取る。
キナ皮、橙皮、合煎3オンス
右2味、各5分水6オンスをもって煎じ3オンスの液を取る。
右両液を合わせて一昼夜の量とし、6回にわけて服用する。
ご兼用として、ペフシネ 20オンス、右熱湯2オンスに溶和し漸く冷えるのをまって希塩酸12滴を加える。
右1日の量、4回に分けて服用する。
同20日より29日まで諸症、同様にて御異常なし。
御運動のため、日々勉強ソ御遊歩アリ、尤もその中御遊歩難渋の節は馬車をもってす。
一、同晦日、ボードウイン並びに伊東拝診、以下もボードウインや伊東の診察をうけている。
10月の始めは、症状は穏やかで遊行もしている。
が、やがて症状が厳しくなってくる。

※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年8月2日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
ボードウインの診察
(明治3年)8月中旬頃より、夜に発作と嘔吐も従って多くなった。
このため全身が日々に衰弱した。
滋養の御食料
・御薬は健胃チンキ(キナと橙皮、肉桂等の諸薬を浸漬した品)
・磠砂・カーネル精、或いは希塩酸、番木越鼈エキス
・キニーネ、乳酸鉄、牛胆等の品
※1磠砂・・塩化アンモニウム、有毒、肝・脾・胃などの薬
※2カーネル精・・アブラヤシオイル
この際にいろいろ服用あれども咳嗽は鎮まらず、衰弱は倍加していく。
昨年(明治2年)4月より、東京在府中、伊東大典医(伊東玄朴)が時々、診察に訪れて、緩急により隔日、あるいは五、六日隔てて拝診にきた。
よって薬も伊東氏の指示どおりであった。
一、九月十七日、第十字蘭医「抱独伊(ボードウイン)」参邸拝診。
此ヨリ前、相良弘庵より、抱独伊、東京ニ来ルヲ報知ス、故ヲ以弘庵ヲ来診ヲ乞フ。
抱氏ハ長崎以来ノ御知己ナリ。
昨年春、大阪ニ於テ、御一診後、今又偶、東京ニ来テ初テ拝診御容姿ノ衰ルヲ視テ大ヒニ駮(驚・おど)ロケリ。
大石良乙通弁。
9月17日に、オランダのボードウインが診察にやってきた。
相良弘庵(相良知安)がボードウインが東京にきていることを知らせてくれた。
弘庵とボードウインは長崎以来の知り合いなので、来診を願った。
昨年の春、ボードウインは一度大阪で診察をしたことがあるが、そのときに比べて(直正が)大きく衰弱していたので大いに驚いた。
通訳は大石良乙がつとめた。
9月19日にボードウインを呼び、伊東大典医が通弁し、その処方は左のようであった。
葛刺歇安私模斯煎(カラヘアンスモス) 5℥(5オンス)
右モス半銭、熱湯7オンスをもって煎じ、5オンスの液を取る。
キナ皮、橙皮、合煎3オンス
右2味、各5分水6オンスをもって煎じ3オンスの液を取る。
右両液を合わせて一昼夜の量とし、6回にわけて服用する。
ご兼用として、ペフシネ 20オンス、右熱湯2オンスに溶和し漸く冷えるのをまって希塩酸12滴を加える。
右1日の量、4回に分けて服用する。
同20日より29日まで諸症、同様にて御異常なし。
御運動のため、日々勉強ソ御遊歩アリ、尤もその中御遊歩難渋の節は馬車をもってす。
一、同晦日、ボードウイン並びに伊東拝診、以下もボードウインや伊東の診察をうけている。
10月の始めは、症状は穏やかで遊行もしている。
が、やがて症状が厳しくなってくる。

※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年8月2日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月13日
鍋島直正公『診察御日記』その6
鍋島直正公『診察御日記』その6
ボードインらの治療
明治3年10月から連日のように、ボードウインや伊東玄朴らが診察に当たっている。
10月 2日、ボードウインや伊東玄朴が拝診。キニーネ2ゲレイン、カスカリルラ末適宜、右4丸にして1回に2粒、朝夕服用。
10月10日、朝軟便、ご気分悪し。
10月11日、食欲あり。
10月12日、感冒の御気味宜シ、第12字、伊東拝診。
10月13日、御胃部強急、夜中御咳嗽多シ
10月14日、朝御大便一行滑、御咳嗽ノ后、于嘔午前御大便一行、溏便中量、微清色。
10月15日、朝大便一行滑。夜中御咳嗽ニテ最モ御困難、御食機ハ宜シ、苦味剤、御耐へ兼ニ依テ御丸薬ヲ止ム。
以下、しばらく同様の記述が続き、伊東とボードウインが回診する。
しかし、翌閏10月中旬にはボードウインが帰国することになった。
また、伊東玄朴自身も体調がすぐれぬ故、養子の伊東新典医(伊東寛斎)を派遣することになった。



ボードウインは、オランダユトレヒト軍医学校の教師で、1862(文久2)年、先に来日していた元生徒ポンペの後任として来日。
長崎で医学校の基礎教育の充実につとめ、化学教育にハラタマを招聘した。
1866年、幕府との西洋医学校建設の約束を果たすため、いったん緒方惟準らをつれて帰国。
翌年再来日したが、幕府崩壊により、新政府に同様の提案をし続ける。
大阪仮学校、大阪陸軍病院につとめ、東京では大学東校で教授。
この間に、もと佐賀藩医師相良知安の依頼により、直正を診療する。
1870(明治3)年に帰国し、オランダ陸軍病院に復帰後、1885年になくなった。
ボードウインの帰国については、伊東玄朴が新政府に口添えをしている。
(明治3年10月[閏] 蘭医ボードイン帰国ニ付賞典並伊藤大典医洋行之儀申立・附ボードイン参内式 、 明治3年10月15日[閏] 大学東校雇蘭医ボードイン帰国謁見 :国立国会図書館 デジタルアーカイヴ)
眼科にすぐれ、日本に初めて検眼鏡を使用した。
上野公園に病院建設の話があったとき、この公園の森は残すべきと反対した。
また彼が持参した健胃剤が、のちさまざまに日本人によって改良され、太田胃散などの胃薬につながった。
大阪のボードウインの活動については、石田純郎『江戸のオランダ医』(三省堂、1988)が詳しい。
とくに、明治2年9月に京都で刺客に襲われ重傷を負った大村益次郎を10月27日、大阪府病院にて右大腿部切断手術をボードウイン執刀で行ったが、すでに手遅れで敗血症により益次郎は11月5日に没した。
薩摩藩の小松帯刀は、幕末期から足痛を煩っていた。
明治2年7月から大阪でボードウインの治療をうけるも回復せず、胸痛、肺病らを併発し、明治3年7月18日に大阪で亡くなっている。
ボードウインの足跡は、我が国近代医学教育の礎を築いた一人として強く意識されるべきであろう。碑は彼が愛した上野公園にある。
なお、大阪医学校に明治2年10月から教師として東京医学校から赴任したのが佐賀藩出身の永松東海であり、東海は慶応3年から長崎でボードウインに学んでおり、ボードウインの大阪時代を助けている。
東海はのち東京医学校に移り、明治7年に初代東京司薬場長に就任するなど、日本薬局方の確立に大きな貢献をしている。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年8月3日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
ボードインらの治療
明治3年10月から連日のように、ボードウインや伊東玄朴らが診察に当たっている。
10月 2日、ボードウインや伊東玄朴が拝診。キニーネ2ゲレイン、カスカリルラ末適宜、右4丸にして1回に2粒、朝夕服用。
10月10日、朝軟便、ご気分悪し。
10月11日、食欲あり。
10月12日、感冒の御気味宜シ、第12字、伊東拝診。
10月13日、御胃部強急、夜中御咳嗽多シ
10月14日、朝御大便一行滑、御咳嗽ノ后、于嘔午前御大便一行、溏便中量、微清色。
10月15日、朝大便一行滑。夜中御咳嗽ニテ最モ御困難、御食機ハ宜シ、苦味剤、御耐へ兼ニ依テ御丸薬ヲ止ム。
以下、しばらく同様の記述が続き、伊東とボードウインが回診する。
しかし、翌閏10月中旬にはボードウインが帰国することになった。
また、伊東玄朴自身も体調がすぐれぬ故、養子の伊東新典医(伊東寛斎)を派遣することになった。



ボードウインは、オランダユトレヒト軍医学校の教師で、1862(文久2)年、先に来日していた元生徒ポンペの後任として来日。
長崎で医学校の基礎教育の充実につとめ、化学教育にハラタマを招聘した。
1866年、幕府との西洋医学校建設の約束を果たすため、いったん緒方惟準らをつれて帰国。
翌年再来日したが、幕府崩壊により、新政府に同様の提案をし続ける。
大阪仮学校、大阪陸軍病院につとめ、東京では大学東校で教授。
この間に、もと佐賀藩医師相良知安の依頼により、直正を診療する。
1870(明治3)年に帰国し、オランダ陸軍病院に復帰後、1885年になくなった。
ボードウインの帰国については、伊東玄朴が新政府に口添えをしている。
(明治3年10月[閏] 蘭医ボードイン帰国ニ付賞典並伊藤大典医洋行之儀申立・附ボードイン参内式 、 明治3年10月15日[閏] 大学東校雇蘭医ボードイン帰国謁見 :国立国会図書館 デジタルアーカイヴ)
眼科にすぐれ、日本に初めて検眼鏡を使用した。
上野公園に病院建設の話があったとき、この公園の森は残すべきと反対した。
また彼が持参した健胃剤が、のちさまざまに日本人によって改良され、太田胃散などの胃薬につながった。
大阪のボードウインの活動については、石田純郎『江戸のオランダ医』(三省堂、1988)が詳しい。
とくに、明治2年9月に京都で刺客に襲われ重傷を負った大村益次郎を10月27日、大阪府病院にて右大腿部切断手術をボードウイン執刀で行ったが、すでに手遅れで敗血症により益次郎は11月5日に没した。
薩摩藩の小松帯刀は、幕末期から足痛を煩っていた。
明治2年7月から大阪でボードウインの治療をうけるも回復せず、胸痛、肺病らを併発し、明治3年7月18日に大阪で亡くなっている。
ボードウインの足跡は、我が国近代医学教育の礎を築いた一人として強く意識されるべきであろう。碑は彼が愛した上野公園にある。
なお、大阪医学校に明治2年10月から教師として東京医学校から赴任したのが佐賀藩出身の永松東海であり、東海は慶応3年から長崎でボードウインに学んでおり、ボードウインの大阪時代を助けている。
東海はのち東京医学校に移り、明治7年に初代東京司薬場長に就任するなど、日本薬局方の確立に大きな貢献をしている。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年8月3日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月12日
鍋島直正公『診療御日記』その7
鍋島直正公『診療御日記』その7
閏10月になると直正公の病状は、日増しに悪くなって行きます。
閏10月10日 第三字(時)抱氏(ボードウイン)并に伊東氏(伊東玄朴)拝診。
御煎薬、機那皮一オンス半、鹿角一オンス
右水八オンスヲ以テ煎ジ五オンスヲ取リ一日ノ量
御副用 ペプシネ 十五ゲレイン
右熱湯一オンスニテ溶解シ、冷ヲ待テ、希塩酸十滴ヨリ
二十滴マデヲ加へ御食後ニ用ユ
同十一日十二日、同様
同十三日、朝御灌腸
十五日までいつものようであった。
十六日御大便、硬軟混交一行、第四字抱氏并伊東拝診、
抱氏同道ニテ仏医モッセ初テ拝診、通弁伊東新典医。
16日から大便の硬軟混交があり、抱氏と伊東玄朴が拝診に訪れた。このときフランス医師の「モッセ(通常はマッセ)」も初めて拝診をした。マッセは仏医なので伊東新典医(伊東方成)が同道した。
※フランス人医師マッセ(1836~1877)は、明治3年に来日、ボードウインの後任の大学東校教師となったが、2ヶ月後に退任して、高知藩病院医師や、群馬県富岡製糸場医師として過ごし明治10年日本で死去した。
※伊東新典医は伊東玄朴養子の伊東方成(1831~1898)で、 文久2年 (1862) 、最初の海外留学生としてオランダで眼科を学び、明治元年 (1868) の帰国に際して持ち帰った眼球模型が東京大学総合博物館にあり、 模型の右下角にある記録から1863年にフランスで製作されたもので、 極めて精巧にできている。フランス留学もしたので、フランス語通弁としてついてきたのであろう。
佐賀藩ではこれまでの容態を佐賀まで飛脚便で連絡をした。
16日に江戸詰の犬塚文十郎と藩医の宮田魯斎が見舞いにやってきた。
閏十月二十一日朝御下痢溏便多量一行、御機嫌悪シ、
御薬 粟売剤僂多扭謨十六滴ヲ加
此日御離杯ノ為抱氏并伊東(玄朴)御招キニナル御酒宴アリ。
伊東新典医、(相良)弘庵、(大石)良乙等陪ス
閏10月21日にボードインのお別れの酒宴を行った。
伊東玄朴も招いて、伊東方成新典医、相良弘庵(知安)、大石良乙(佐賀藩医)らが陪席して、酒宴が行われた。
これ以降、ボードウインの治療は見当たらない。
離日の準備をすすめたのであろう。
直正の容態は日増しに悪化していく。
伊東玄朴が診察に訪れるがなかなかよくならない。
こうして、翌明治4年正月をむかえることになる。




※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年8月6日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
閏10月になると直正公の病状は、日増しに悪くなって行きます。
閏10月10日 第三字(時)抱氏(ボードウイン)并に伊東氏(伊東玄朴)拝診。
御煎薬、機那皮一オンス半、鹿角一オンス
右水八オンスヲ以テ煎ジ五オンスヲ取リ一日ノ量
御副用 ペプシネ 十五ゲレイン
右熱湯一オンスニテ溶解シ、冷ヲ待テ、希塩酸十滴ヨリ
二十滴マデヲ加へ御食後ニ用ユ
同十一日十二日、同様
同十三日、朝御灌腸
十五日までいつものようであった。
十六日御大便、硬軟混交一行、第四字抱氏并伊東拝診、
抱氏同道ニテ仏医モッセ初テ拝診、通弁伊東新典医。
16日から大便の硬軟混交があり、抱氏と伊東玄朴が拝診に訪れた。このときフランス医師の「モッセ(通常はマッセ)」も初めて拝診をした。マッセは仏医なので伊東新典医(伊東方成)が同道した。
※フランス人医師マッセ(1836~1877)は、明治3年に来日、ボードウインの後任の大学東校教師となったが、2ヶ月後に退任して、高知藩病院医師や、群馬県富岡製糸場医師として過ごし明治10年日本で死去した。
※伊東新典医は伊東玄朴養子の伊東方成(1831~1898)で、 文久2年 (1862) 、最初の海外留学生としてオランダで眼科を学び、明治元年 (1868) の帰国に際して持ち帰った眼球模型が東京大学総合博物館にあり、 模型の右下角にある記録から1863年にフランスで製作されたもので、 極めて精巧にできている。フランス留学もしたので、フランス語通弁としてついてきたのであろう。
佐賀藩ではこれまでの容態を佐賀まで飛脚便で連絡をした。
16日に江戸詰の犬塚文十郎と藩医の宮田魯斎が見舞いにやってきた。
閏十月二十一日朝御下痢溏便多量一行、御機嫌悪シ、
御薬 粟売剤僂多扭謨十六滴ヲ加
此日御離杯ノ為抱氏并伊東(玄朴)御招キニナル御酒宴アリ。
伊東新典医、(相良)弘庵、(大石)良乙等陪ス
閏10月21日にボードインのお別れの酒宴を行った。
伊東玄朴も招いて、伊東方成新典医、相良弘庵(知安)、大石良乙(佐賀藩医)らが陪席して、酒宴が行われた。
これ以降、ボードウインの治療は見当たらない。
離日の準備をすすめたのであろう。
直正の容態は日増しに悪化していく。
伊東玄朴が診察に訪れるがなかなかよくならない。
こうして、翌明治4年正月をむかえることになる。




※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年8月6日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月11日
鍋島直正公『診察御日記』その8
直正公『診察御日記』その8
明治3年11月になると、直正公の病状は日増しに悪化していく。が、日々馬車での近傍の遊行等は怠りなく勤めている。
1日の記録には永田町の屋敷が増築中とある。
永田町の私邸は麹町にあり、約2万坪の広大な敷地だった。
のち明治25年に11代鍋島直大が、辰野金吾に依頼して3階建の西洋建築を建てたので、明治天皇らも行幸している。
ただし、この建築は1923年の関東大震災で崩壊した。

11月13日に竹内玄庵が診察にきた。
玄庵は、以前に伊万里で直正に拝謁したことがある。
その縁で、診察に呼ばれたのであった。
竹内玄庵は、天保7年(1836)生まれ。蘭方医竹内玄同の子。
竹内玄同は伊東玄朴の推挙で奥医師になっている。
玄庵は、はじめ父玄同に、のち長崎でボードインらに西洋医学を学んだ。
長崎病院頭取,東京病院準頭取などをへて明治19年宮内省侍医となった。
明治27年(1894)6月20日死去。59歳。字は玄庵。号は麹園。
長崎でボードインに修業中に、直正と出会ったものであろう。
その処方は格綸僕六分・鹿角・桂・甘草を使っている。
格綸僕は「薬物新論」によれば、アフリカ東南海モザンビークに植生するコキュリュス・パルマチュスの根で、吐瀉、嘔吐に特効ありと言われる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837772/18?tocOpened=1
11月15日に、竹内は再診に来た。
伊東新大典医もやってきて、しきりに築地在住のドイツ医を奨めている。
伊東大典医とは、伊東玄朴の養子で伊東方成(1834-1898)のこと。
方成は、文久2年(1862)、ポンペの帰国に際し、翌日林研海とともにオランダに留学。慶応4年(1868)に帰国。
直正公へのボードインの診察にあたり、通訳として付き添っている。
築地のドイツ医というのは、ヨングハンスのことで、11月24日に、初めて直正公を診察している。
ヨングハンスはドイツ系アメリカ人医師で、名古屋の医学講習所(のち名古屋大学医学部)に招かれ講義をしている。
このときの生理学講義が『原生要論』で、名古屋大学最初の学術書となった。
直正公を診察した縁で、のち佐賀の好生館へも招かれて講義をしている。
通訳として同行したのが司馬凌海(1840~1879)であった。
凌海は、松本良順について長崎でポンペに医学を学び、江戸に戻ってから語学方面で活躍し、明治3年段階は、医学校(のち東京大学医学部)の少助教となっていた。
語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じており、明治5年に日本最初のドイツ語辞典といわれる『和訳独逸辞典』を出版している。
11月24日の処方は
芦薈越幾私・番木瞥越幾斯。
右二味 各四分ゲレインノ一ヲ一丸トス。
日ニ三丸御食後ニ用
というものであった。
芦薈越幾私(ロワイエキス)はアロエエキスのこと。番木瞥エキスは不明。
当代きっての名医による診察にもかかわらず、直正公の容態は悪化していく。
十一月朔日、永田町御私邸御増築中ニ付、当分同処下小屋へ御転居。同日ヨリ九日マテ格別ノ御節モナシト雖モ気分悪シ。尤モ日々馬車ニテ近傍御遊行等ハ御怠ナク御勤メ。
一 同十一日、御干嘔五次、御食機減乏夜大便一行、少量滑
一 同十二日、朝御大便一行、滑少量、御食機ナシ、牛乳少々奨ム。尤モ御夜食ハ少シ宜シ。
一 同十三日、朝御通シナシ、午前干嘔、一次、第五次、竹内玄庵拝診、御処方、左ノ如シ同人、曽テ伊万里に於テ初メテ拝謁ス。其故ニ因ル。格綸僕六分 鹿角 桂 甘草 右水煮。
一 同十四日、朝御通シナシ。夕刻一行軟便中量、夜十字御咳嗽多シ、後ハ安眠。
一 同十五日、朝大便ナシ。夕刻一行軟、第五字竹内拝診、伊東新大典医亦参邸、築地在留ノ独逸医ヲ頻リニ称誉ス。夜中酸敗ニテ御困難。
一 同十六日、朝御大便一行溏中量、夕刻一行同打追御酸敗 御散薬 マグネシ 十五ゲレイン ピスミット三ゲレイン。
一 同十七日、朝大便一行同、夕刻一行同少量、御酸敗除去ス、宮田魯斎明日ヨリ帰藩ニ付、今日マテノ容体書、佐賀ヘ出ス。
一 同十八日、朝御大便滑多量、御食味乏。
一 同十九日、朝御大便極多量滑。
一 同二十日、朝御便通一行多量同、夕刻一行少量。
一 同廿一日、朝御滑便一行多量、御食機減乏。御煎薬、鹿角煎ニ亜児尼加根泡出 御丸薬、阿芙蓉一ゲレイン、阿仙薬十二ゲレイン タンニネ一ゲレイン 右五包ニ御分服。
一 同廿二日、朝御大便ナシ。御食機同様。御煎薬中ニ甘硝石精四十滴加入。
一 同廿三日、朝御通シナシ。御食機前日ニ比スレハ僅ニ可ナリ。夜中大ニ風気ヲ泄ス。
一 同廿四日、朝御大便ナシ。御食餌少シ宜シ。築地在留ノ独逸医「沃武華(ヨムハン)」ヲ招テ拝診ヲ乞フ。通弁司馬量海((凌海))御附方左ノ如シ。芦薈越幾私 番木瞥越幾斯 右二味 各四分ゲレインノ一ヲ一丸トス。日ニ三丸御食後ニ用。御含漱薬 明礬 没薬丁幾 ピンピネ丁幾 朝夕漿粉ノ御浣腸。竜脳油ヲフラネルニ浸漬シ、御臍傍攣急ノ部ニ被覆ス。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月11日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
明治3年11月になると、直正公の病状は日増しに悪化していく。が、日々馬車での近傍の遊行等は怠りなく勤めている。
1日の記録には永田町の屋敷が増築中とある。
永田町の私邸は麹町にあり、約2万坪の広大な敷地だった。
のち明治25年に11代鍋島直大が、辰野金吾に依頼して3階建の西洋建築を建てたので、明治天皇らも行幸している。
ただし、この建築は1923年の関東大震災で崩壊した。

11月13日に竹内玄庵が診察にきた。
玄庵は、以前に伊万里で直正に拝謁したことがある。
その縁で、診察に呼ばれたのであった。
竹内玄庵は、天保7年(1836)生まれ。蘭方医竹内玄同の子。
竹内玄同は伊東玄朴の推挙で奥医師になっている。
玄庵は、はじめ父玄同に、のち長崎でボードインらに西洋医学を学んだ。
長崎病院頭取,東京病院準頭取などをへて明治19年宮内省侍医となった。
明治27年(1894)6月20日死去。59歳。字は玄庵。号は麹園。
長崎でボードインに修業中に、直正と出会ったものであろう。
その処方は格綸僕六分・鹿角・桂・甘草を使っている。
格綸僕は「薬物新論」によれば、アフリカ東南海モザンビークに植生するコキュリュス・パルマチュスの根で、吐瀉、嘔吐に特効ありと言われる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837772/18?tocOpened=1
11月15日に、竹内は再診に来た。
伊東新大典医もやってきて、しきりに築地在住のドイツ医を奨めている。
伊東大典医とは、伊東玄朴の養子で伊東方成(1834-1898)のこと。
方成は、文久2年(1862)、ポンペの帰国に際し、翌日林研海とともにオランダに留学。慶応4年(1868)に帰国。
直正公へのボードインの診察にあたり、通訳として付き添っている。
築地のドイツ医というのは、ヨングハンスのことで、11月24日に、初めて直正公を診察している。
ヨングハンスはドイツ系アメリカ人医師で、名古屋の医学講習所(のち名古屋大学医学部)に招かれ講義をしている。
このときの生理学講義が『原生要論』で、名古屋大学最初の学術書となった。
直正公を診察した縁で、のち佐賀の好生館へも招かれて講義をしている。
通訳として同行したのが司馬凌海(1840~1879)であった。
凌海は、松本良順について長崎でポンペに医学を学び、江戸に戻ってから語学方面で活躍し、明治3年段階は、医学校(のち東京大学医学部)の少助教となっていた。
語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じており、明治5年に日本最初のドイツ語辞典といわれる『和訳独逸辞典』を出版している。
11月24日の処方は
芦薈越幾私・番木瞥越幾斯。
右二味 各四分ゲレインノ一ヲ一丸トス。
日ニ三丸御食後ニ用
というものであった。
芦薈越幾私(ロワイエキス)はアロエエキスのこと。番木瞥エキスは不明。
当代きっての名医による診察にもかかわらず、直正公の容態は悪化していく。
十一月朔日、永田町御私邸御増築中ニ付、当分同処下小屋へ御転居。同日ヨリ九日マテ格別ノ御節モナシト雖モ気分悪シ。尤モ日々馬車ニテ近傍御遊行等ハ御怠ナク御勤メ。
一 同十一日、御干嘔五次、御食機減乏夜大便一行、少量滑
一 同十二日、朝御大便一行、滑少量、御食機ナシ、牛乳少々奨ム。尤モ御夜食ハ少シ宜シ。
一 同十三日、朝御通シナシ、午前干嘔、一次、第五次、竹内玄庵拝診、御処方、左ノ如シ同人、曽テ伊万里に於テ初メテ拝謁ス。其故ニ因ル。格綸僕六分 鹿角 桂 甘草 右水煮。
一 同十四日、朝御通シナシ。夕刻一行軟便中量、夜十字御咳嗽多シ、後ハ安眠。
一 同十五日、朝大便ナシ。夕刻一行軟、第五字竹内拝診、伊東新大典医亦参邸、築地在留ノ独逸医ヲ頻リニ称誉ス。夜中酸敗ニテ御困難。
一 同十六日、朝御大便一行溏中量、夕刻一行同打追御酸敗 御散薬 マグネシ 十五ゲレイン ピスミット三ゲレイン。
一 同十七日、朝大便一行同、夕刻一行同少量、御酸敗除去ス、宮田魯斎明日ヨリ帰藩ニ付、今日マテノ容体書、佐賀ヘ出ス。
一 同十八日、朝御大便滑多量、御食味乏。
一 同十九日、朝御大便極多量滑。
一 同二十日、朝御便通一行多量同、夕刻一行少量。
一 同廿一日、朝御滑便一行多量、御食機減乏。御煎薬、鹿角煎ニ亜児尼加根泡出 御丸薬、阿芙蓉一ゲレイン、阿仙薬十二ゲレイン タンニネ一ゲレイン 右五包ニ御分服。
一 同廿二日、朝御大便ナシ。御食機同様。御煎薬中ニ甘硝石精四十滴加入。
一 同廿三日、朝御通シナシ。御食機前日ニ比スレハ僅ニ可ナリ。夜中大ニ風気ヲ泄ス。
一 同廿四日、朝御大便ナシ。御食餌少シ宜シ。築地在留ノ独逸医「沃武華(ヨムハン)」ヲ招テ拝診ヲ乞フ。通弁司馬量海((凌海))御附方左ノ如シ。芦薈越幾私 番木瞥越幾斯 右二味 各四分ゲレインノ一ヲ一丸トス。日ニ三丸御食後ニ用。御含漱薬 明礬 没薬丁幾 ピンピネ丁幾 朝夕漿粉ノ御浣腸。竜脳油ヲフラネルニ浸漬シ、御臍傍攣急ノ部ニ被覆ス。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月11日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月10日
鍋島直正公『診察御日記』その9
鍋島直正公『診察御日記』その9
ややつらいのだが、記録を紹介しておく。
12月に入ると、直正公の病状はさらに悪化し、下痢が続く。
12月1日
それでも午后2時には近所を馬車で遊行している。
十二月朔日
「朝御大便一行滑中量。午后一行同少量。第二字御遊行トキ、皮屋宅ニテ一行同中量夕刻御浣腸。」
12月4日
ヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
下痢は止まらず、衰弱は倍加しているので、ヨングハンスは、
「硝酸銀硝十ゲレイン、アヘン丁幾半戔 蒸留水十六℥右下痢コトニ二℥ヲ取リ直腸ニ注ク遠志丁幾二戔、ラウリール水二℥、バルサムトーリュー舎利別一℥右二洋時ゴトニ一茶匕ヲ服ス」
との処方を与えた。
12月6日
午后4時にもヨングハンスと司馬凌海が診察に訪れた。
今回の処方は
「第四字ヨムハン并量海拝診。没食子酸三ゲレイン 格綸僕一匁右適宜ノ水ニ浸漬シ、白糖適宜ヲ加フ一日量御湯中ニバルサム三十滴ヲ加へ吸気筒ニ入レ、其蒸気ヲ吸入ス。」
というものであった。
侍医である松隈元南は、6日までの容体書を記して飛脚便で佐賀へ送っている。
12月7日
近所を馬車で「遊行」しているが、これが最後の「遊行」となった。
12月18日
午后3時にヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
「一 同十八日、同二行、第三字ヨムハン并量海拝診「カリサア、エッセンス」ニ「ステレキニーネ」四十分ゲレインノ一加、右一日三次但蒸留水一℥中ニステレキニーネ一ゲレインヲ溶和ス。此液十二滴中四十分ゲレインノ一ヲ含。」
という処方であり、松隈元南は、浣腸時に
「蒸留水一℥中ラーピス二ゲレインヲ溶和シ、ヨク腸ノ上部ニ達センヲ希フ」
と、薬液が腸の上部に届いて、下痢が治まることを願っている。
12月22日
作事が終わって、近くの仮の屋敷から、永田町の屋敷に駕籠で移った。
一 同廿二日、同六行、此日御作事稍成就ニ付、午后第二字御移送ニナル、僅ノ御途中ナレトモ御駕籠ノ動揺ニ因テ、二、三次御干嘔アリ。」
以後、永田町の屋敷に移って良陽を続けたが、病状はよくならず、12月中旬からは一日中、睡りがちで精神も明瞭ならず、便所への往来もまた困難になってきた。
明治3年の大晦日である12月29日
侍医松隈元南は、家僕の本島喜八郎に、此までの容体書を渡して、佐賀へ早追(はやおい、急行飛脚)で病状を伝えさせた。
直正公は、平常の脈は40程度であったが、今は70程になり、体もこれ以上は痩せられないほどになってしまっていた。
こうして、翌明治4年を迎えることになる。
一 同廿九日、同二行、御臍傍芥子泥ヲ貼ス。当月中旬比ヨリ、御食機十分ナラズ。量モ亦減ス、昼夜只御眠リガチニテ御精神モ明了ナラス。御便所ノ御往来甚タ御困難ノ状アリ、御手足微ニ浮腫ヲ催シ、御嬴痩ハ已ニ極度ニ至リ、平素四十動内外ノ御脈度、今乃七十動ニ昇リ而シテ微弱力ナク、実ニナントモスル無キノ御容体ニ付、家僕本島喜八郎、早追ニテ佐賀ヘ往ク、故ニ七日以来ノ御容体ヲ詳記シテ附與ス。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月12日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
ややつらいのだが、記録を紹介しておく。
12月に入ると、直正公の病状はさらに悪化し、下痢が続く。
12月1日
それでも午后2時には近所を馬車で遊行している。
十二月朔日
「朝御大便一行滑中量。午后一行同少量。第二字御遊行トキ、皮屋宅ニテ一行同中量夕刻御浣腸。」
12月4日
ヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
下痢は止まらず、衰弱は倍加しているので、ヨングハンスは、
「硝酸銀硝十ゲレイン、アヘン丁幾半戔 蒸留水十六℥右下痢コトニ二℥ヲ取リ直腸ニ注ク遠志丁幾二戔、ラウリール水二℥、バルサムトーリュー舎利別一℥右二洋時ゴトニ一茶匕ヲ服ス」
との処方を与えた。
12月6日
午后4時にもヨングハンスと司馬凌海が診察に訪れた。
今回の処方は
「第四字ヨムハン并量海拝診。没食子酸三ゲレイン 格綸僕一匁右適宜ノ水ニ浸漬シ、白糖適宜ヲ加フ一日量御湯中ニバルサム三十滴ヲ加へ吸気筒ニ入レ、其蒸気ヲ吸入ス。」
というものであった。
侍医である松隈元南は、6日までの容体書を記して飛脚便で佐賀へ送っている。
12月7日
近所を馬車で「遊行」しているが、これが最後の「遊行」となった。
12月18日
午后3時にヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
「一 同十八日、同二行、第三字ヨムハン并量海拝診「カリサア、エッセンス」ニ「ステレキニーネ」四十分ゲレインノ一加、右一日三次但蒸留水一℥中ニステレキニーネ一ゲレインヲ溶和ス。此液十二滴中四十分ゲレインノ一ヲ含。」
という処方であり、松隈元南は、浣腸時に
「蒸留水一℥中ラーピス二ゲレインヲ溶和シ、ヨク腸ノ上部ニ達センヲ希フ」
と、薬液が腸の上部に届いて、下痢が治まることを願っている。
12月22日
作事が終わって、近くの仮の屋敷から、永田町の屋敷に駕籠で移った。
一 同廿二日、同六行、此日御作事稍成就ニ付、午后第二字御移送ニナル、僅ノ御途中ナレトモ御駕籠ノ動揺ニ因テ、二、三次御干嘔アリ。」
以後、永田町の屋敷に移って良陽を続けたが、病状はよくならず、12月中旬からは一日中、睡りがちで精神も明瞭ならず、便所への往来もまた困難になってきた。
明治3年の大晦日である12月29日
侍医松隈元南は、家僕の本島喜八郎に、此までの容体書を渡して、佐賀へ早追(はやおい、急行飛脚)で病状を伝えさせた。
直正公は、平常の脈は40程度であったが、今は70程になり、体もこれ以上は痩せられないほどになってしまっていた。
こうして、翌明治4年を迎えることになる。
一 同廿九日、同二行、御臍傍芥子泥ヲ貼ス。当月中旬比ヨリ、御食機十分ナラズ。量モ亦減ス、昼夜只御眠リガチニテ御精神モ明了ナラス。御便所ノ御往来甚タ御困難ノ状アリ、御手足微ニ浮腫ヲ催シ、御嬴痩ハ已ニ極度ニ至リ、平素四十動内外ノ御脈度、今乃七十動ニ昇リ而シテ微弱力ナク、実ニナントモスル無キノ御容体ニ付、家僕本島喜八郎、早追ニテ佐賀ヘ往ク、故ニ七日以来ノ御容体ヲ詳記シテ附與ス。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月12日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2017年01月09日
鍋島直正公『診察御日記』その10
鍋島直正公『診察御日記』その10
明治4年正月18日に直正公は息をひきとります。
1月の診療日記は、日に日に衰えていく直正公に対して、懸命に治療を続ける侍医(松隈元南)とヨングハンスらの診療がみえてきます。
1月1日の記録では、キニーネやモルヒネを使って下痢や発熱を抑えようとしています。
1月4日にはラウダニウムを使って浣腸をして、体内の毒を出そうとしています。
明治四年未正月元日、朝御軟便一行黄色中量、御丸薬 規尼捏一ゲレイン、謨爾比捏三分ゲレインノ一右四回ニ御分服。
1月5日にはオクリカンキリを初めて使っています。
オクリカンキリはアメリカザリガニの胃石で、眼病や万能薬として使用されていました。
一 同五日、暁六字御瀉下多量、爾後四度斗、少々ツ丶御下敷ニ泄ル。
第三字一行水瀉中量、夜六字一行同、同、三字半一行同、臭気尤モ甚シ。御酸敗アリテ御胸燩カ如キヲ覚フ。
オクリカンキリ一匁右三包ニ分、鹿角煎ヲ以御冷服。
1月6日にヨングハンスと司馬量(凌)海が診察にやってきました。
ヨングハンスの処方は、「カリサーエッセンス半℥、ステレキニーネ四十分ゲレインノ一、キニーネ一ゲレインヲ加フ。」というものでした。
1月7日からの食事は、ご飯よりも雑炊が多くなります。
噛む力も衰えてきたからでしょう。
これまでの容体書を富岡十蔵に佐賀へ遣わして届けさせました。
おそらく臨終の近いことを伝えさせたことでしょう。
1月8日に、ヨングハンスと司馬量海が診察にやってきて、新しい治療法を提案しました。
それは、尻から、牛肉などの煮汁を入れて栄養をつけさせるというものでしたが、松隈元南は、その方法はかえって直正公の体力を奪うことになるし、どのくらいの効果があるか疑問として、採用せず、その提案のみを記しています。
ヨンハン并量海拝診。血液ノ滋養不足、至極ノ御衰弱ニ付、専ラ滋養ノ食餌ヲ希望スルノミ。今御食機減乏、已ニ何トモ無ケレハ、直腸ヨリ之ヲ奬ムヘシト云。然レトモ遂ニ御用ヒナシ。
縦令ヒ強ク之ヲ行トモ幾許ノ効アランヤ。徒ニ御難渋ヲ増スノミ。
然トモ普医、喋々頻リニ其効験ヲ述故ニ只其用方ヲ記スルノミ一封度ノ牛肉ヲ煮テ六℥ノ液ヲ取リ、初メノ用方三℥ノポールト酒ヲ和シ行フ。
第二ニハ半℥ヲ加へ、第三ニハ復タ半ヲ減ス。
1月9日は、朝牛乳を飲んでいます。
牛乳は毎朝欠かさず飲んでいました。
さすがに西洋の文物好きな直正公でした。
1月10日には、ヨングハンスと司馬量海が診察にやってきましたが、薬は休んで、飲食の衛養(栄養)のみでの治療をすすめています。
今日中諸薬液御休止、只御飲食ノ衛養ノミ加密列湯ニテ御全身ヲ浄拭ミ芳香水ヲ綿片ニ浸漬シ、処々御骨痛ノ部ニ敷ク。
戔位以下準之。御汁二杯、六字半御雑炊八十戔。
御向少々御大便ナシ。御小用晝夜八度。
御煎薬、 鹿角濃煎ニ甘硝石精一℥、桂露ニ少シ加フ 三字御全身浄拭。
1月11日からは御飯でなく雑炊に切り替えています。
長い寝たきり生活ですから全身を冷水できれいに拭いてあげています。
1月16日に正四位様、すなわち11代直大公が到着します。
死後の近いことが伝えられ、死に目に会いに上京したものでしょう。
直大公は、1869年に正四位下右近衞権少将となっています。
一 同十六日、暁五字半御大便中量滑、十二字御粥三十一戔、五字肉羹汁一椀此品雀液ト交時々上ル、六字御粥二十戔、牡丹餅一、晝三字比正四位様御着京。
1月17日、ヨングハンスが司馬量海とともに来診し、エリキシル。シフカリサア。ウイツ。アイロン。及トリキヒンを投与しています。
訳すと黄幾那、兼鉄香木、鼈合剤です。さらに、長い間横になっていた床ずれによる湿疹については、冷水で洗い、芳香水で洗い、バルサム(樹脂油)を1℥、石炭酸五滴を合わせて患部に被せてきれいにしています。
脈はわずかに指下に応ずるのみになってきています。
一 同一七日、十二字御大便琶布状中量、一字御粥二十七戔、夜六字半御粥十戔、御雑炊十一戔、牡蠣汁一椀、宵ヨリ微御発熱、御手足或時温或時冷、御精神胱惚トシテ明了ナラス、御脈微弱、僅ニ指下ニ応スルノミ。
晝二字比、普医沃武華并司馬量海拝診。
エリキシル。シフカリサア。ウイツ。アイロン。及トリキヒン 訳云黄幾那、兼鉄香木、鼈合剤右半茶匕ヨリ始メ一茶匕ニ至ル。
日ニ三次御眠瘡ノ部ハ始メ冷水ニテ洗ヒ、後ニ芳香水ニテ再ヒ洗ヒ、バルサムヘーリュ一℥、石炭酸五滴合テ綿布ニ浸シ、御患部ニ被フ。
1月18日、朝4時半ごろから脈がほとんどなくなり、薬液も飲み込めず、呼吸が次第にかすかになって、6時ごろ、ついに直正公は息を引き取りました。
直正公、享年58歳。
1月23日に正二位が授与されました。
日記は以下の記述で終わります。
一 同十八日暁、四字半比ヨリ、御脈指下ニ応セス。
薬液ノ御嚥下出来兼御呼吸次第ニ幽遠、六字比遂ニ御大切ニ及バセラレタリ。
一統恐怖シ奉リソロ。
鍋島直正公『診察御日記』(了)
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月19日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
明治4年正月18日に直正公は息をひきとります。
1月の診療日記は、日に日に衰えていく直正公に対して、懸命に治療を続ける侍医(松隈元南)とヨングハンスらの診療がみえてきます。
1月1日の記録では、キニーネやモルヒネを使って下痢や発熱を抑えようとしています。
1月4日にはラウダニウムを使って浣腸をして、体内の毒を出そうとしています。
明治四年未正月元日、朝御軟便一行黄色中量、御丸薬 規尼捏一ゲレイン、謨爾比捏三分ゲレインノ一右四回ニ御分服。
1月5日にはオクリカンキリを初めて使っています。
オクリカンキリはアメリカザリガニの胃石で、眼病や万能薬として使用されていました。
一 同五日、暁六字御瀉下多量、爾後四度斗、少々ツ丶御下敷ニ泄ル。
第三字一行水瀉中量、夜六字一行同、同、三字半一行同、臭気尤モ甚シ。御酸敗アリテ御胸燩カ如キヲ覚フ。
オクリカンキリ一匁右三包ニ分、鹿角煎ヲ以御冷服。
1月6日にヨングハンスと司馬量(凌)海が診察にやってきました。
ヨングハンスの処方は、「カリサーエッセンス半℥、ステレキニーネ四十分ゲレインノ一、キニーネ一ゲレインヲ加フ。」というものでした。
1月7日からの食事は、ご飯よりも雑炊が多くなります。
噛む力も衰えてきたからでしょう。
これまでの容体書を富岡十蔵に佐賀へ遣わして届けさせました。
おそらく臨終の近いことを伝えさせたことでしょう。
1月8日に、ヨングハンスと司馬量海が診察にやってきて、新しい治療法を提案しました。
それは、尻から、牛肉などの煮汁を入れて栄養をつけさせるというものでしたが、松隈元南は、その方法はかえって直正公の体力を奪うことになるし、どのくらいの効果があるか疑問として、採用せず、その提案のみを記しています。
ヨンハン并量海拝診。血液ノ滋養不足、至極ノ御衰弱ニ付、専ラ滋養ノ食餌ヲ希望スルノミ。今御食機減乏、已ニ何トモ無ケレハ、直腸ヨリ之ヲ奬ムヘシト云。然レトモ遂ニ御用ヒナシ。
縦令ヒ強ク之ヲ行トモ幾許ノ効アランヤ。徒ニ御難渋ヲ増スノミ。
然トモ普医、喋々頻リニ其効験ヲ述故ニ只其用方ヲ記スルノミ一封度ノ牛肉ヲ煮テ六℥ノ液ヲ取リ、初メノ用方三℥ノポールト酒ヲ和シ行フ。
第二ニハ半℥ヲ加へ、第三ニハ復タ半ヲ減ス。
1月9日は、朝牛乳を飲んでいます。
牛乳は毎朝欠かさず飲んでいました。
さすがに西洋の文物好きな直正公でした。
1月10日には、ヨングハンスと司馬量海が診察にやってきましたが、薬は休んで、飲食の衛養(栄養)のみでの治療をすすめています。
今日中諸薬液御休止、只御飲食ノ衛養ノミ加密列湯ニテ御全身ヲ浄拭ミ芳香水ヲ綿片ニ浸漬シ、処々御骨痛ノ部ニ敷ク。
戔位以下準之。御汁二杯、六字半御雑炊八十戔。
御向少々御大便ナシ。御小用晝夜八度。
御煎薬、 鹿角濃煎ニ甘硝石精一℥、桂露ニ少シ加フ 三字御全身浄拭。
1月11日からは御飯でなく雑炊に切り替えています。
長い寝たきり生活ですから全身を冷水できれいに拭いてあげています。
1月16日に正四位様、すなわち11代直大公が到着します。
死後の近いことが伝えられ、死に目に会いに上京したものでしょう。
直大公は、1869年に正四位下右近衞権少将となっています。
一 同十六日、暁五字半御大便中量滑、十二字御粥三十一戔、五字肉羹汁一椀此品雀液ト交時々上ル、六字御粥二十戔、牡丹餅一、晝三字比正四位様御着京。
1月17日、ヨングハンスが司馬量海とともに来診し、エリキシル。シフカリサア。ウイツ。アイロン。及トリキヒンを投与しています。
訳すと黄幾那、兼鉄香木、鼈合剤です。さらに、長い間横になっていた床ずれによる湿疹については、冷水で洗い、芳香水で洗い、バルサム(樹脂油)を1℥、石炭酸五滴を合わせて患部に被せてきれいにしています。
脈はわずかに指下に応ずるのみになってきています。
一 同一七日、十二字御大便琶布状中量、一字御粥二十七戔、夜六字半御粥十戔、御雑炊十一戔、牡蠣汁一椀、宵ヨリ微御発熱、御手足或時温或時冷、御精神胱惚トシテ明了ナラス、御脈微弱、僅ニ指下ニ応スルノミ。
晝二字比、普医沃武華并司馬量海拝診。
エリキシル。シフカリサア。ウイツ。アイロン。及トリキヒン 訳云黄幾那、兼鉄香木、鼈合剤右半茶匕ヨリ始メ一茶匕ニ至ル。
日ニ三次御眠瘡ノ部ハ始メ冷水ニテ洗ヒ、後ニ芳香水ニテ再ヒ洗ヒ、バルサムヘーリュ一℥、石炭酸五滴合テ綿布ニ浸シ、御患部ニ被フ。
1月18日、朝4時半ごろから脈がほとんどなくなり、薬液も飲み込めず、呼吸が次第にかすかになって、6時ごろ、ついに直正公は息を引き取りました。
直正公、享年58歳。
1月23日に正二位が授与されました。
日記は以下の記述で終わります。
一 同十八日暁、四字半比ヨリ、御脈指下ニ応セス。
薬液ノ御嚥下出来兼御呼吸次第ニ幽遠、六字比遂ニ御大切ニ及バセラレタリ。
一統恐怖シ奉リソロ。
鍋島直正公『診察御日記』(了)
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月19日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。