2017年01月11日

鍋島直正公『診察御日記』その8

直正公『診察御日記』その8

明治3年11月になると、直正公の病状は日増しに悪化していく。が、日々馬車での近傍の遊行等は怠りなく勤めている。

1日の記録には永田町の屋敷が増築中とある。
永田町の私邸は麹町にあり、約2万坪の広大な敷地だった。
のち明治25年に11代鍋島直大が、辰野金吾に依頼して3階建の西洋建築を建てたので、明治天皇らも行幸している。
ただし、この建築は1923年の関東大震災で崩壊した。
鍋島直正公『診察御日記』その8

11月13日に竹内玄庵が診察にきた。
玄庵は、以前に伊万里で直正に拝謁したことがある。
その縁で、診察に呼ばれたのであった。

竹内玄庵は、天保7年(1836)生まれ。蘭方医竹内玄同の子。
竹内玄同は伊東玄朴の推挙で奥医師になっている。

玄庵は、はじめ父玄同に、のち長崎でボードインらに西洋医学を学んだ。
長崎病院頭取,東京病院準頭取などをへて明治19年宮内省侍医となった。
明治27年(1894)6月20日死去。59歳。字は玄庵。号は麹園。
長崎でボードインに修業中に、直正と出会ったものであろう。

その処方は格綸僕六分・鹿角・桂・甘草を使っている。
格綸僕は「薬物新論」によれば、アフリカ東南海モザンビークに植生するコキュリュス・パルマチュスの根で、吐瀉、嘔吐に特効ありと言われる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837772/18?tocOpened=1

11月15日に、竹内は再診に来た。
伊東新大典医もやってきて、しきりに築地在住のドイツ医を奨めている。
伊東大典医とは、伊東玄朴の養子で伊東方成(1834-1898)のこと。
方成は、文久2年(1862)、ポンペの帰国に際し、翌日林研海とともにオランダに留学。慶応4年(1868)に帰国。
直正公へのボードインの診察にあたり、通訳として付き添っている。

築地のドイツ医というのは、ヨングハンスのことで、11月24日に、初めて直正公を診察している。
ヨングハンスはドイツ系アメリカ人医師で、名古屋の医学講習所(のち名古屋大学医学部)に招かれ講義をしている。
このときの生理学講義が『原生要論』で、名古屋大学最初の学術書となった。

直正公を診察した縁で、のち佐賀の好生館へも招かれて講義をしている。

通訳として同行したのが司馬凌海(1840~1879)であった。
凌海は、松本良順について長崎でポンペに医学を学び、江戸に戻ってから語学方面で活躍し、明治3年段階は、医学校(のち東京大学医学部)の少助教となっていた。
語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じており、明治5年に日本最初のドイツ語辞典といわれる『和訳独逸辞典』を出版している。

11月24日の処方は
芦薈越幾私・番木瞥越幾斯。
右二味 各四分ゲレインノ一ヲ一丸トス。
日ニ三丸御食後ニ用
というものであった。
芦薈越幾私(ロワイエキス)はアロエエキスのこと。番木瞥エキスは不明。

当代きっての名医による診察にもかかわらず、直正公の容態は悪化していく。

十一月朔日、永田町御私邸御増築中ニ付、当分同処下小屋へ御転居。同日ヨリ九日マテ格別ノ御節モナシト雖モ気分悪シ。尤モ日々馬車ニテ近傍御遊行等ハ御怠ナク御勤メ。

一 同十一日、御干嘔五次、御食機減乏夜大便一行、少量滑

一 同十二日、朝御大便一行、滑少量、御食機ナシ、牛乳少々奨ム。尤モ御夜食ハ少シ宜シ。

一 同十三日、朝御通シナシ、午前干嘔、一次、第五次、竹内玄庵拝診、御処方、左ノ如シ同人、曽テ伊万里に於テ初メテ拝謁ス。其故ニ因ル。格綸僕六分 鹿角 桂 甘草 右水煮。

一 同十四日、朝御通シナシ。夕刻一行軟便中量、夜十字御咳嗽多シ、後ハ安眠。

一 同十五日、朝大便ナシ。夕刻一行軟、第五字竹内拝診、伊東新大典医亦参邸、築地在留ノ独逸医ヲ頻リニ称誉ス。夜中酸敗ニテ御困難。

一 同十六日、朝御大便一行溏中量、夕刻一行同打追御酸敗 御散薬 マグネシ 十五ゲレイン ピスミット三ゲレイン。

一 同十七日、朝大便一行同、夕刻一行同少量、御酸敗除去ス、宮田魯斎明日ヨリ帰藩ニ付、今日マテノ容体書、佐賀ヘ出ス。

一 同十八日、朝御大便滑多量、御食味乏。

一 同十九日、朝御大便極多量滑。

一 同二十日、朝御便通一行多量同、夕刻一行少量。

一 同廿一日、朝御滑便一行多量、御食機減乏。御煎薬、鹿角煎ニ亜児尼加根泡出 御丸薬、阿芙蓉一ゲレイン、阿仙薬十二ゲレイン タンニネ一ゲレイン 右五包ニ御分服。

一 同廿二日、朝御大便ナシ。御食機同様。御煎薬中ニ甘硝石精四十滴加入。

一 同廿三日、朝御通シナシ。御食機前日ニ比スレハ僅ニ可ナリ。夜中大ニ風気ヲ泄ス。

一 同廿四日、朝御大便ナシ。御食餌少シ宜シ。築地在留ノ独逸医「沃武華(ヨムハン)」ヲ招テ拝診ヲ乞フ。通弁司馬量海((凌海))御附方左ノ如シ。芦薈越幾私 番木瞥越幾斯 右二味 各四分ゲレインノ一ヲ一丸トス。日ニ三丸御食後ニ用。御含漱薬 明礬 没薬丁幾 ピンピネ丁幾 朝夕漿粉ノ御浣腸。竜脳油ヲフラネルニ浸漬シ、御臍傍攣急ノ部ニ被覆ス。



※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月11日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。


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