2016年12月26日
緒方塾と佐賀の蘭学
◆大坂と緖方塾と佐賀の蘭学とは大変深い関係があります。
佐賀の蘭学の祖と言われる島本良順(龍嘯)は、文政10年(1827)の暮れに大坂に蘭学修業に出ます。
良順はすでに長崎でオランダ通詞の猪俣伝次右衛門にオランダ語を学んでおり、医師としても佐賀城下で西洋医としての看板を掲げており、伊東玄朴(1800~1871)や大庭雪斎(1806~1873)に蘭学の手ほどきをしていたのですが、さらに勉強を深めるために大坂に出ました。
大坂で開業しつつ、蘭学修業を続けているうちに、良順の評判はどんどんあがり、2年後の文政12年の歌舞伎俳優に見立てた大坂の医者番付をみると、上の段の一番左に橋本曹(宗)吉、ついで島本良順、その右に中天游が記されています。良順の評価は精緻とあり、すでに究理の橋本宗吉、解剖の中天游と並ぶほどの実力と評価があったのです。

◆島本良順は文政年間の末に、佐賀へ帰って蘭学塾を開きます。
その良順を招いたのが、佐賀藩儒者古賀穀堂でした。幕府昌平黌の教師となった佐賀藩出身儒者古賀精里の長男です。
古賀穀堂は儒者でありながら蘭学は世界一統の学問として、蘭学学習と医学校の設立の必要性を、藩主らに説き、やがて若い藩主鍋島直正の時代になって、天保5年(1834)に医学寮が設立され、良順が寮監として西洋医学の講義を開始します。
◆大庭雪斎は、良順に蘭学の手ほどきを受けました。
雪斎は、良順が佐賀へ戻るのと前後して、大坂にでて中天游の塾に、緖方洪庵(1810~63)とともに学びました。雪斎は洪庵より4歳年上の兄弟子でした。
雪斎刪定の志筑忠雄『暦象新書』の序に、「先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ」とあり、雪斎は、中天游の蘭学塾で洪庵とともに蘭書を学び、志筑忠雄の『暦象新書』も見ることができました。
そのあと、いったん郷里に帰ります。緖方洪庵が中天游に学ぶのが文政9年(1826)から天保元年(1830)なので、雪斎の緖方洪庵との同窓時期はそのころとみられます。
◆洪庵は天保元年(1830)から江戸に出ます。
苦学のすえ、翌年から坪井信道に学びます。中天游が天保6年(1835)に亡くなったため、いったん江戸から大坂に戻り、中天游塾を守り、天保7年から9年まで長崎で修業後、大坂瓦町で蘭学塾適々斎塾を開きます。この年、29歳の洪庵は、中天游門人の一人億川百記の娘八重(17歳)と結婚します。
◆大庭雪斎は、弘化2年(1845)から同4年の間、再び大坂に出ます。
大坂では、医者を開業しつつ本格的に洪庵の適塾に通いました。当時の雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化2年刊)に「内科今橋二丁目大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所で、開業しながら、適塾にある原書ガランマチカなどを読み解いたのです。その成果は雪斎訳のオランダ文法書『訳和蘭文語』となります(刊行は安政3,4年)。
緒方洪庵は『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずに大坂で洪庵門に入り苦労して大成したと書いてあります。雪斎と洪庵のきずなの深さがわかります。
ですから、洪庵塾で研鑽を積み、実力をつけた雪斎は、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文には、「足守 緒方章公裁、義弟郁子文 同訳、大庭忞景徳 参校」と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになったのでした。
◆雪斎は、嘉永4年(1851)、佐賀藩蘭学寮の初代教導となります。
佐賀藩が西洋科学技術を導入するにあたり、その研究機関である蘭学寮の初代教導となり、安政元年(1854)に弘道館教導となり、安政5年(1858)に好生館ができるとその教導方頭取となり、医学生延べ650人にもなる幕末期における我が国最大の西洋医学校である好生館の校長として、西洋医学教育を推進したのでした。
◆一方、適塾で門下生を指導していた緖方洪庵は、江戸に呼ばれます。
呼んだのは、古賀穀堂の弟の古賀謹一郎と、佐賀藩医で奧医師の伊東玄朴でした。古賀謹一郎は、プチャーチンが来航した嘉永6年(1853)に交渉役の川路聖謨に随行し、長崎までやってきて反射炉もみて帰ります。
謹一郎は、西洋研究の重要性を老中らに説き、やがて洋学所焼失後の洋学研究機関である蕃書調所の設置にこぎつけ、謹一郎が校長として、箕作阮甫と杉田成卿を教授として、全国から優秀な蘭学者を集めます。安政3年(1856)に最先端の洋学研究所が作られました。
◆安政5年(1858)に伊東玄朴らが、江戸お玉が池種痘所を開設します。
場所は川路の屋敷でした。玄朴らは、ここを拠点に西洋医学を発展させるために、万延元年(1860)には、幕府直轄の種痘所にし、文久元年(1861)に西洋医学所に発展させたのでした。
しかし文久2年にこの頭取の大槻俊斎が亡くなったので、玄朴らは緖方洪庵を次の頭取にと招いたのでした。最初は断っていた洪庵でしたが、西洋医学推進のため、江戸に下ります。しかし、まだほとんどなにもできていないなかでの苦労が重なり、文久3年(1863)の6月、突然の大喀血で洪庵は亡くなります。54歳でした。
この洪庵の追悼の墓碑銘を書いたのが古賀謹一郎でした。幕末の西洋医学、西洋学術推進に、緖方洪庵と佐賀の人脈が、神経のシナプスのようにつながっていました。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏のFacebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
佐賀の蘭学の祖と言われる島本良順(龍嘯)は、文政10年(1827)の暮れに大坂に蘭学修業に出ます。
良順はすでに長崎でオランダ通詞の猪俣伝次右衛門にオランダ語を学んでおり、医師としても佐賀城下で西洋医としての看板を掲げており、伊東玄朴(1800~1871)や大庭雪斎(1806~1873)に蘭学の手ほどきをしていたのですが、さらに勉強を深めるために大坂に出ました。
大坂で開業しつつ、蘭学修業を続けているうちに、良順の評判はどんどんあがり、2年後の文政12年の歌舞伎俳優に見立てた大坂の医者番付をみると、上の段の一番左に橋本曹(宗)吉、ついで島本良順、その右に中天游が記されています。良順の評価は精緻とあり、すでに究理の橋本宗吉、解剖の中天游と並ぶほどの実力と評価があったのです。

◆島本良順は文政年間の末に、佐賀へ帰って蘭学塾を開きます。
その良順を招いたのが、佐賀藩儒者古賀穀堂でした。幕府昌平黌の教師となった佐賀藩出身儒者古賀精里の長男です。
古賀穀堂は儒者でありながら蘭学は世界一統の学問として、蘭学学習と医学校の設立の必要性を、藩主らに説き、やがて若い藩主鍋島直正の時代になって、天保5年(1834)に医学寮が設立され、良順が寮監として西洋医学の講義を開始します。
◆大庭雪斎は、良順に蘭学の手ほどきを受けました。
雪斎は、良順が佐賀へ戻るのと前後して、大坂にでて中天游の塾に、緖方洪庵(1810~63)とともに学びました。雪斎は洪庵より4歳年上の兄弟子でした。
雪斎刪定の志筑忠雄『暦象新書』の序に、「先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ」とあり、雪斎は、中天游の蘭学塾で洪庵とともに蘭書を学び、志筑忠雄の『暦象新書』も見ることができました。
そのあと、いったん郷里に帰ります。緖方洪庵が中天游に学ぶのが文政9年(1826)から天保元年(1830)なので、雪斎の緖方洪庵との同窓時期はそのころとみられます。
◆洪庵は天保元年(1830)から江戸に出ます。
苦学のすえ、翌年から坪井信道に学びます。中天游が天保6年(1835)に亡くなったため、いったん江戸から大坂に戻り、中天游塾を守り、天保7年から9年まで長崎で修業後、大坂瓦町で蘭学塾適々斎塾を開きます。この年、29歳の洪庵は、中天游門人の一人億川百記の娘八重(17歳)と結婚します。
◆大庭雪斎は、弘化2年(1845)から同4年の間、再び大坂に出ます。
大坂では、医者を開業しつつ本格的に洪庵の適塾に通いました。当時の雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化2年刊)に「内科今橋二丁目大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所で、開業しながら、適塾にある原書ガランマチカなどを読み解いたのです。その成果は雪斎訳のオランダ文法書『訳和蘭文語』となります(刊行は安政3,4年)。
緒方洪庵は『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずに大坂で洪庵門に入り苦労して大成したと書いてあります。雪斎と洪庵のきずなの深さがわかります。
ですから、洪庵塾で研鑽を積み、実力をつけた雪斎は、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文には、「足守 緒方章公裁、義弟郁子文 同訳、大庭忞景徳 参校」と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになったのでした。
◆雪斎は、嘉永4年(1851)、佐賀藩蘭学寮の初代教導となります。
佐賀藩が西洋科学技術を導入するにあたり、その研究機関である蘭学寮の初代教導となり、安政元年(1854)に弘道館教導となり、安政5年(1858)に好生館ができるとその教導方頭取となり、医学生延べ650人にもなる幕末期における我が国最大の西洋医学校である好生館の校長として、西洋医学教育を推進したのでした。
◆一方、適塾で門下生を指導していた緖方洪庵は、江戸に呼ばれます。
呼んだのは、古賀穀堂の弟の古賀謹一郎と、佐賀藩医で奧医師の伊東玄朴でした。古賀謹一郎は、プチャーチンが来航した嘉永6年(1853)に交渉役の川路聖謨に随行し、長崎までやってきて反射炉もみて帰ります。
謹一郎は、西洋研究の重要性を老中らに説き、やがて洋学所焼失後の洋学研究機関である蕃書調所の設置にこぎつけ、謹一郎が校長として、箕作阮甫と杉田成卿を教授として、全国から優秀な蘭学者を集めます。安政3年(1856)に最先端の洋学研究所が作られました。
◆安政5年(1858)に伊東玄朴らが、江戸お玉が池種痘所を開設します。
場所は川路の屋敷でした。玄朴らは、ここを拠点に西洋医学を発展させるために、万延元年(1860)には、幕府直轄の種痘所にし、文久元年(1861)に西洋医学所に発展させたのでした。
しかし文久2年にこの頭取の大槻俊斎が亡くなったので、玄朴らは緖方洪庵を次の頭取にと招いたのでした。最初は断っていた洪庵でしたが、西洋医学推進のため、江戸に下ります。しかし、まだほとんどなにもできていないなかでの苦労が重なり、文久3年(1863)の6月、突然の大喀血で洪庵は亡くなります。54歳でした。
この洪庵の追悼の墓碑銘を書いたのが古賀謹一郎でした。幕末の西洋医学、西洋学術推進に、緖方洪庵と佐賀の人脈が、神経のシナプスのようにつながっていました。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏のFacebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
2016年12月22日
アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新
『アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新ー1868~1869年の日本』
(布施田哲也翻訳・デザインエッグ社)

・ボイヤーといってもほとんど知ることがない人が多数だろう。
・西暦1868年7月に、京都にいた佐賀藩主鍋島直正を診察したアメリカ人医師である。
・今回は、その診療の様子を本書から要約する。
◆7月26日、肥前藩家臣(本島藤大夫と推察)が大坂領事館にいたボイヤーに診察を依頼に来た。
同日中に、ボイヤーは、キニーネ、アヘンチンキ、クロロフォルム、ヨウ化カリウム、重炭酸カリウム、サイドリッツ散、下剤配合薬、青汞丸、鎮痛剤、ドーフル散をアメリカ海軍イロコイ号の医師に準備させた。
◆7月27日、本島藤大夫ら家臣2人と通訳としてジョセフ彦がやって来た。
翌朝6時に迎えに来ることを約束した。当日の午後にイロコイ号から薬が届いた。
◆7月28日にボイヤー医師、日本人(肥前藩家臣)2人、兵庫のアメリカ領事スチュワート大佐、通訳のジョセフ彦が、京都目指して舟で淀川上流へ出発した。
先日の洪水で、淀川とその周辺は水につかっていたため、枚方で一泊した。宿泊所では西洋式の水洗便所にバスタブも備えられ、ナプキン、タオル、石けんやアメリカ人が好む食事すら用意されていた。歓待を受けた一行のもとに、肥前藩士ら30名(もしくは50名)が警護のために到着した。彼らは連射式スペンサー銃を携帯し、頑健で訓練が行き届き、礼儀正しく統率がとれた隊であった。
◆7月29日、陸路を進んだ一行は、午後2時に京都の肥前藩邸に入った。
ボイヤーは下駄を履かされたので慣れるまで、佐野常民と佐賀藩役人片山伝七が両脇から支えた。京都の蘭方医新宮凉民も同行した。藩主は数十名の藩士を従え、長いすの半洋風のベッドに横になっていた。診察の結果、藩主は間違った診療をうけていたことが判明した。藩主はチフス状から赤痢の経過をたどっており、よだれの流出がとまらないほどの大量の水銀を投与されていたことがわかった。
現在は、大黄0.5グラムと硫酸キニーネ0.2グラムを一日3回内服していた。藩主を診察すると、舌は乾燥し、茶色の舌苔がびっしりあり、口腔内や歯肉も茶色に変色し大きな口腔内潰瘍が一つあった。大変衰弱した状態で脈拍は38回/分であった。いったん退出したボイヤーは、トコン散0.2グラムの頓服を処方した。
◆7月30日、朝7時に診察に行った。
ヨウ化カリウム0.065グラム、アヘンチンキカンフル液15滴、クロロフォルム0.13グラムを水15mlに混和して1回分として、1日3回内服、また食用酢 10ml、食塩12グラム、水150mlを混和したうがい薬で1日5~10回うがいするように伝えた。
午後の診察時には、かなり回復してきていた。午後11時にボイヤーは退出した。とてもよくなってきていた藩主には翌朝から硫酸キニーネ0.13グラム、シェリーワイン16ml、水16mlを1日3回食前に服用するように処方を出した。
◆7月31日(西暦)、藩主の気力が改善していることを確認した。
とても回復が早かった。藩主から代理を通じて御礼をもらった(それはジョゼフ彦の記録によれば、領事は素晴らしい刺繍のはいった絹の織物2つと漆器の引き出し、ボイヤーは絹の帯地3本と銀で50両、通訳の彦は70両をいただいた。
午後1時に最後の診察をして、午後4時に京都を出発した。午後11時、大坂にむけて伏見から船に乗り込んだ。
◆8月1日、午前5時に大坂についた。
兵庫沖のイロコイ号には、午後8時に着いた。
◆8月5日、早朝、京都の藩邸より、肥前藩藩医サガラ・ヂュダン(相良知安)と2名の役人がやって来た。
藩主が日々元気になり、一人で邸内を歩行できるようになったことを告げた。藩主には塩化第二鉄液5滴、硫酸キニーネ0.13グラム、水15mlをよく混和し、1日3回食前に内服する。ワインの飲用はこれまで通り。食後の薬は7月30日に処方した通り。うがい薬はミョウバン3.9グラムを水470mlに溶かしたものを1日6~7回うがいするように伝えた。
◆8月27日、肥前藩医である相良知安が医師1名、役人2名とともにやって来た。
藩主が2.5㎞程度の散歩ができるまでに回復したこと、藩主は1日3回ポートワインを飲み続けていることなどを伝えた。ボイヤーは便秘の処方を与えた。
◆8月28日、老医と肥前の軍艦の艦長が、再び藩主の指示で御礼を述べにやってきた。
以上で、ボイヤーによる鍋島直正の診察は終わる。
鍋島直正は、ボイヤーは命の恩人であると話していたようである。相良知安が、直正がボイヤーを佐賀藩医にしたいほどの意向をしめし、ボイヤーもまんざらでもない様子であった。その後、ボイヤーの船は、その後、長崎、佐渡、函館、上海・台湾・香港などを経て、長崎、兵庫、横浜などを碇泊後、1869年11月22日にサンフランシスコに着いたので、ボイヤーを佐賀藩医にすることは叶わなかった。もし、ボイヤーを佐賀藩医にできたら、直正はもっと長生きできていたかもしれない。
直正にとって病状悪化の原因の一つが大量の水銀投与であった。また相良知安の呼称であるが、サガラ・ヂュダンとあるので、サガラトモヤスとは読まずに、サガラチアンと呼ばれていたと考えてよい。
直正を警護する佐賀藩兵が最新式のスペンサー銃を携帯し、洋式軍隊の訓練をうけて統率のとれていたこともよくわかる。
本書は、1868年から1869年の明治維新期の日本の状況を、いままでの歴史とは違った側面から照らし出すものになっている。非常な労作であり、医学史のみならず、明治維新史にも裨益するところ大きい。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏のFacebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
※本書は、amazonで注文すれば2894円で送料無料で購入できます。
(布施田哲也翻訳・デザインエッグ社)

・ボイヤーといってもほとんど知ることがない人が多数だろう。
・西暦1868年7月に、京都にいた佐賀藩主鍋島直正を診察したアメリカ人医師である。
・今回は、その診療の様子を本書から要約する。
◆7月26日、肥前藩家臣(本島藤大夫と推察)が大坂領事館にいたボイヤーに診察を依頼に来た。
同日中に、ボイヤーは、キニーネ、アヘンチンキ、クロロフォルム、ヨウ化カリウム、重炭酸カリウム、サイドリッツ散、下剤配合薬、青汞丸、鎮痛剤、ドーフル散をアメリカ海軍イロコイ号の医師に準備させた。
◆7月27日、本島藤大夫ら家臣2人と通訳としてジョセフ彦がやって来た。
翌朝6時に迎えに来ることを約束した。当日の午後にイロコイ号から薬が届いた。
◆7月28日にボイヤー医師、日本人(肥前藩家臣)2人、兵庫のアメリカ領事スチュワート大佐、通訳のジョセフ彦が、京都目指して舟で淀川上流へ出発した。
先日の洪水で、淀川とその周辺は水につかっていたため、枚方で一泊した。宿泊所では西洋式の水洗便所にバスタブも備えられ、ナプキン、タオル、石けんやアメリカ人が好む食事すら用意されていた。歓待を受けた一行のもとに、肥前藩士ら30名(もしくは50名)が警護のために到着した。彼らは連射式スペンサー銃を携帯し、頑健で訓練が行き届き、礼儀正しく統率がとれた隊であった。
◆7月29日、陸路を進んだ一行は、午後2時に京都の肥前藩邸に入った。
ボイヤーは下駄を履かされたので慣れるまで、佐野常民と佐賀藩役人片山伝七が両脇から支えた。京都の蘭方医新宮凉民も同行した。藩主は数十名の藩士を従え、長いすの半洋風のベッドに横になっていた。診察の結果、藩主は間違った診療をうけていたことが判明した。藩主はチフス状から赤痢の経過をたどっており、よだれの流出がとまらないほどの大量の水銀を投与されていたことがわかった。
現在は、大黄0.5グラムと硫酸キニーネ0.2グラムを一日3回内服していた。藩主を診察すると、舌は乾燥し、茶色の舌苔がびっしりあり、口腔内や歯肉も茶色に変色し大きな口腔内潰瘍が一つあった。大変衰弱した状態で脈拍は38回/分であった。いったん退出したボイヤーは、トコン散0.2グラムの頓服を処方した。
◆7月30日、朝7時に診察に行った。
ヨウ化カリウム0.065グラム、アヘンチンキカンフル液15滴、クロロフォルム0.13グラムを水15mlに混和して1回分として、1日3回内服、また食用酢 10ml、食塩12グラム、水150mlを混和したうがい薬で1日5~10回うがいするように伝えた。
午後の診察時には、かなり回復してきていた。午後11時にボイヤーは退出した。とてもよくなってきていた藩主には翌朝から硫酸キニーネ0.13グラム、シェリーワイン16ml、水16mlを1日3回食前に服用するように処方を出した。
◆7月31日(西暦)、藩主の気力が改善していることを確認した。
とても回復が早かった。藩主から代理を通じて御礼をもらった(それはジョゼフ彦の記録によれば、領事は素晴らしい刺繍のはいった絹の織物2つと漆器の引き出し、ボイヤーは絹の帯地3本と銀で50両、通訳の彦は70両をいただいた。
午後1時に最後の診察をして、午後4時に京都を出発した。午後11時、大坂にむけて伏見から船に乗り込んだ。
◆8月1日、午前5時に大坂についた。
兵庫沖のイロコイ号には、午後8時に着いた。
◆8月5日、早朝、京都の藩邸より、肥前藩藩医サガラ・ヂュダン(相良知安)と2名の役人がやって来た。
藩主が日々元気になり、一人で邸内を歩行できるようになったことを告げた。藩主には塩化第二鉄液5滴、硫酸キニーネ0.13グラム、水15mlをよく混和し、1日3回食前に内服する。ワインの飲用はこれまで通り。食後の薬は7月30日に処方した通り。うがい薬はミョウバン3.9グラムを水470mlに溶かしたものを1日6~7回うがいするように伝えた。
◆8月27日、肥前藩医である相良知安が医師1名、役人2名とともにやって来た。
藩主が2.5㎞程度の散歩ができるまでに回復したこと、藩主は1日3回ポートワインを飲み続けていることなどを伝えた。ボイヤーは便秘の処方を与えた。
◆8月28日、老医と肥前の軍艦の艦長が、再び藩主の指示で御礼を述べにやってきた。
以上で、ボイヤーによる鍋島直正の診察は終わる。
鍋島直正は、ボイヤーは命の恩人であると話していたようである。相良知安が、直正がボイヤーを佐賀藩医にしたいほどの意向をしめし、ボイヤーもまんざらでもない様子であった。その後、ボイヤーの船は、その後、長崎、佐渡、函館、上海・台湾・香港などを経て、長崎、兵庫、横浜などを碇泊後、1869年11月22日にサンフランシスコに着いたので、ボイヤーを佐賀藩医にすることは叶わなかった。もし、ボイヤーを佐賀藩医にできたら、直正はもっと長生きできていたかもしれない。
直正にとって病状悪化の原因の一つが大量の水銀投与であった。また相良知安の呼称であるが、サガラ・ヂュダンとあるので、サガラトモヤスとは読まずに、サガラチアンと呼ばれていたと考えてよい。
直正を警護する佐賀藩兵が最新式のスペンサー銃を携帯し、洋式軍隊の訓練をうけて統率のとれていたこともよくわかる。
本書は、1868年から1869年の明治維新期の日本の状況を、いままでの歴史とは違った側面から照らし出すものになっている。非常な労作であり、医学史のみならず、明治維新史にも裨益するところ大きい。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏のFacebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
※本書は、amazonで注文すれば2894円で送料無料で購入できます。