2016年12月22日

アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新

『アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新ー1868~1869年の日本』
(布施田哲也翻訳・デザインエッグ社)

アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新

・ボイヤーといってもほとんど知ることがない人が多数だろう。

・西暦1868年7月に、京都にいた佐賀藩主鍋島直正を診察したアメリカ人医師である。

・今回は、その診療の様子を本書から要約する。

◆7月26日、肥前藩家臣(本島藤大夫と推察)が大坂領事館にいたボイヤーに診察を依頼に来た。
同日中に、ボイヤーは、キニーネ、アヘンチンキ、クロロフォルム、ヨウ化カリウム、重炭酸カリウム、サイドリッツ散、下剤配合薬、青汞丸、鎮痛剤、ドーフル散をアメリカ海軍イロコイ号の医師に準備させた。

◆7月27日、本島藤大夫ら家臣2人と通訳としてジョセフ彦がやって来た。
翌朝6時に迎えに来ることを約束した。当日の午後にイロコイ号から薬が届いた。

◆7月28日にボイヤー医師、日本人(肥前藩家臣)2人、兵庫のアメリカ領事スチュワート大佐、通訳のジョセフ彦が、京都目指して舟で淀川上流へ出発した。
先日の洪水で、淀川とその周辺は水につかっていたため、枚方で一泊した。宿泊所では西洋式の水洗便所にバスタブも備えられ、ナプキン、タオル、石けんやアメリカ人が好む食事すら用意されていた。歓待を受けた一行のもとに、肥前藩士ら30名(もしくは50名)が警護のために到着した。彼らは連射式スペンサー銃を携帯し、頑健で訓練が行き届き、礼儀正しく統率がとれた隊であった。

◆7月29日、陸路を進んだ一行は、午後2時に京都の肥前藩邸に入った。
ボイヤーは下駄を履かされたので慣れるまで、佐野常民と佐賀藩役人片山伝七が両脇から支えた。京都の蘭方医新宮凉民も同行した。藩主は数十名の藩士を従え、長いすの半洋風のベッドに横になっていた。診察の結果、藩主は間違った診療をうけていたことが判明した。藩主はチフス状から赤痢の経過をたどっており、よだれの流出がとまらないほどの大量の水銀を投与されていたことがわかった。
現在は、大黄0.5グラムと硫酸キニーネ0.2グラムを一日3回内服していた。藩主を診察すると、舌は乾燥し、茶色の舌苔がびっしりあり、口腔内や歯肉も茶色に変色し大きな口腔内潰瘍が一つあった。大変衰弱した状態で脈拍は38回/分であった。いったん退出したボイヤーは、トコン散0.2グラムの頓服を処方した。

◆7月30日、朝7時に診察に行った。
ヨウ化カリウム0.065グラム、アヘンチンキカンフル液15滴、クロロフォルム0.13グラムを水15mlに混和して1回分として、1日3回内服、また食用酢 10ml、食塩12グラム、水150mlを混和したうがい薬で1日5~10回うがいするように伝えた。
午後の診察時には、かなり回復してきていた。午後11時にボイヤーは退出した。とてもよくなってきていた藩主には翌朝から硫酸キニーネ0.13グラム、シェリーワイン16ml、水16mlを1日3回食前に服用するように処方を出した。

◆7月31日(西暦)、藩主の気力が改善していることを確認した。
とても回復が早かった。藩主から代理を通じて御礼をもらった(それはジョゼフ彦の記録によれば、領事は素晴らしい刺繍のはいった絹の織物2つと漆器の引き出し、ボイヤーは絹の帯地3本と銀で50両、通訳の彦は70両をいただいた。
午後1時に最後の診察をして、午後4時に京都を出発した。午後11時、大坂にむけて伏見から船に乗り込んだ。

◆8月1日、午前5時に大坂についた。
兵庫沖のイロコイ号には、午後8時に着いた。

◆8月5日、早朝、京都の藩邸より、肥前藩藩医サガラ・ヂュダン(相良知安)と2名の役人がやって来た。
藩主が日々元気になり、一人で邸内を歩行できるようになったことを告げた。藩主には塩化第二鉄液5滴、硫酸キニーネ0.13グラム、水15mlをよく混和し、1日3回食前に内服する。ワインの飲用はこれまで通り。食後の薬は7月30日に処方した通り。うがい薬はミョウバン3.9グラムを水470mlに溶かしたものを1日6~7回うがいするように伝えた。

◆8月27日、肥前藩医である相良知安が医師1名、役人2名とともにやって来た。
藩主が2.5㎞程度の散歩ができるまでに回復したこと、藩主は1日3回ポートワインを飲み続けていることなどを伝えた。ボイヤーは便秘の処方を与えた。

◆8月28日、老医と肥前の軍艦の艦長が、再び藩主の指示で御礼を述べにやってきた。
以上で、ボイヤーによる鍋島直正の診察は終わる。

 鍋島直正は、ボイヤーは命の恩人であると話していたようである。相良知安が、直正がボイヤーを佐賀藩医にしたいほどの意向をしめし、ボイヤーもまんざらでもない様子であった。その後、ボイヤーの船は、その後、長崎、佐渡、函館、上海・台湾・香港などを経て、長崎、兵庫、横浜などを碇泊後、1869年11月22日にサンフランシスコに着いたので、ボイヤーを佐賀藩医にすることは叶わなかった。もし、ボイヤーを佐賀藩医にできたら、直正はもっと長生きできていたかもしれない。

直正にとって病状悪化の原因の一つが大量の水銀投与であった。また相良知安の呼称であるが、サガラ・ヂュダンとあるので、サガラトモヤスとは読まずに、サガラチアンと呼ばれていたと考えてよい。

直正を警護する佐賀藩兵が最新式のスペンサー銃を携帯し、洋式軍隊の訓練をうけて統率のとれていたこともよくわかる。

本書は、1868年から1869年の明治維新期の日本の状況を、いままでの歴史とは違った側面から照らし出すものになっている。非常な労作であり、医学史のみならず、明治維新史にも裨益するところ大きい。

※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏のFacebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
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Posted by bakumatusaga at 17:16 | Comments(0) | 佐賀藩と医学
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