2017年01月10日
鍋島直正公『診察御日記』その9
鍋島直正公『診察御日記』その9
ややつらいのだが、記録を紹介しておく。
12月に入ると、直正公の病状はさらに悪化し、下痢が続く。
12月1日
それでも午后2時には近所を馬車で遊行している。
十二月朔日
「朝御大便一行滑中量。午后一行同少量。第二字御遊行トキ、皮屋宅ニテ一行同中量夕刻御浣腸。」
12月4日
ヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
下痢は止まらず、衰弱は倍加しているので、ヨングハンスは、
「硝酸銀硝十ゲレイン、アヘン丁幾半戔 蒸留水十六℥右下痢コトニ二℥ヲ取リ直腸ニ注ク遠志丁幾二戔、ラウリール水二℥、バルサムトーリュー舎利別一℥右二洋時ゴトニ一茶匕ヲ服ス」
との処方を与えた。
12月6日
午后4時にもヨングハンスと司馬凌海が診察に訪れた。
今回の処方は
「第四字ヨムハン并量海拝診。没食子酸三ゲレイン 格綸僕一匁右適宜ノ水ニ浸漬シ、白糖適宜ヲ加フ一日量御湯中ニバルサム三十滴ヲ加へ吸気筒ニ入レ、其蒸気ヲ吸入ス。」
というものであった。
侍医である松隈元南は、6日までの容体書を記して飛脚便で佐賀へ送っている。
12月7日
近所を馬車で「遊行」しているが、これが最後の「遊行」となった。
12月18日
午后3時にヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
「一 同十八日、同二行、第三字ヨムハン并量海拝診「カリサア、エッセンス」ニ「ステレキニーネ」四十分ゲレインノ一加、右一日三次但蒸留水一℥中ニステレキニーネ一ゲレインヲ溶和ス。此液十二滴中四十分ゲレインノ一ヲ含。」
という処方であり、松隈元南は、浣腸時に
「蒸留水一℥中ラーピス二ゲレインヲ溶和シ、ヨク腸ノ上部ニ達センヲ希フ」
と、薬液が腸の上部に届いて、下痢が治まることを願っている。
12月22日
作事が終わって、近くの仮の屋敷から、永田町の屋敷に駕籠で移った。
一 同廿二日、同六行、此日御作事稍成就ニ付、午后第二字御移送ニナル、僅ノ御途中ナレトモ御駕籠ノ動揺ニ因テ、二、三次御干嘔アリ。」
以後、永田町の屋敷に移って良陽を続けたが、病状はよくならず、12月中旬からは一日中、睡りがちで精神も明瞭ならず、便所への往来もまた困難になってきた。
明治3年の大晦日である12月29日
侍医松隈元南は、家僕の本島喜八郎に、此までの容体書を渡して、佐賀へ早追(はやおい、急行飛脚)で病状を伝えさせた。
直正公は、平常の脈は40程度であったが、今は70程になり、体もこれ以上は痩せられないほどになってしまっていた。
こうして、翌明治4年を迎えることになる。
一 同廿九日、同二行、御臍傍芥子泥ヲ貼ス。当月中旬比ヨリ、御食機十分ナラズ。量モ亦減ス、昼夜只御眠リガチニテ御精神モ明了ナラス。御便所ノ御往来甚タ御困難ノ状アリ、御手足微ニ浮腫ヲ催シ、御嬴痩ハ已ニ極度ニ至リ、平素四十動内外ノ御脈度、今乃七十動ニ昇リ而シテ微弱力ナク、実ニナントモスル無キノ御容体ニ付、家僕本島喜八郎、早追ニテ佐賀ヘ往ク、故ニ七日以来ノ御容体ヲ詳記シテ附與ス。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月12日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
ややつらいのだが、記録を紹介しておく。
12月に入ると、直正公の病状はさらに悪化し、下痢が続く。
12月1日
それでも午后2時には近所を馬車で遊行している。
十二月朔日
「朝御大便一行滑中量。午后一行同少量。第二字御遊行トキ、皮屋宅ニテ一行同中量夕刻御浣腸。」
12月4日
ヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
下痢は止まらず、衰弱は倍加しているので、ヨングハンスは、
「硝酸銀硝十ゲレイン、アヘン丁幾半戔 蒸留水十六℥右下痢コトニ二℥ヲ取リ直腸ニ注ク遠志丁幾二戔、ラウリール水二℥、バルサムトーリュー舎利別一℥右二洋時ゴトニ一茶匕ヲ服ス」
との処方を与えた。
12月6日
午后4時にもヨングハンスと司馬凌海が診察に訪れた。
今回の処方は
「第四字ヨムハン并量海拝診。没食子酸三ゲレイン 格綸僕一匁右適宜ノ水ニ浸漬シ、白糖適宜ヲ加フ一日量御湯中ニバルサム三十滴ヲ加へ吸気筒ニ入レ、其蒸気ヲ吸入ス。」
というものであった。
侍医である松隈元南は、6日までの容体書を記して飛脚便で佐賀へ送っている。
12月7日
近所を馬車で「遊行」しているが、これが最後の「遊行」となった。
12月18日
午后3時にヨングハンスと司馬凌海が診察にやってきた。
「一 同十八日、同二行、第三字ヨムハン并量海拝診「カリサア、エッセンス」ニ「ステレキニーネ」四十分ゲレインノ一加、右一日三次但蒸留水一℥中ニステレキニーネ一ゲレインヲ溶和ス。此液十二滴中四十分ゲレインノ一ヲ含。」
という処方であり、松隈元南は、浣腸時に
「蒸留水一℥中ラーピス二ゲレインヲ溶和シ、ヨク腸ノ上部ニ達センヲ希フ」
と、薬液が腸の上部に届いて、下痢が治まることを願っている。
12月22日
作事が終わって、近くの仮の屋敷から、永田町の屋敷に駕籠で移った。
一 同廿二日、同六行、此日御作事稍成就ニ付、午后第二字御移送ニナル、僅ノ御途中ナレトモ御駕籠ノ動揺ニ因テ、二、三次御干嘔アリ。」
以後、永田町の屋敷に移って良陽を続けたが、病状はよくならず、12月中旬からは一日中、睡りがちで精神も明瞭ならず、便所への往来もまた困難になってきた。
明治3年の大晦日である12月29日
侍医松隈元南は、家僕の本島喜八郎に、此までの容体書を渡して、佐賀へ早追(はやおい、急行飛脚)で病状を伝えさせた。
直正公は、平常の脈は40程度であったが、今は70程になり、体もこれ以上は痩せられないほどになってしまっていた。
こうして、翌明治4年を迎えることになる。
一 同廿九日、同二行、御臍傍芥子泥ヲ貼ス。当月中旬比ヨリ、御食機十分ナラズ。量モ亦減ス、昼夜只御眠リガチニテ御精神モ明了ナラス。御便所ノ御往来甚タ御困難ノ状アリ、御手足微ニ浮腫ヲ催シ、御嬴痩ハ已ニ極度ニ至リ、平素四十動内外ノ御脈度、今乃七十動ニ昇リ而シテ微弱力ナク、実ニナントモスル無キノ御容体ニ付、家僕本島喜八郎、早追ニテ佐賀ヘ往ク、故ニ七日以来ノ御容体ヲ詳記シテ附與ス。
※本文は、幕末佐賀研究会 会長の青木歳幸氏の2015年11月12日 Facebookから転載しています。今後、青木先生の了承の下、ブログ管理者がランダムにアップして行く予定です。
Posted by bakumatusaga at 09:34 | Comments(0) | 鍋島直正公『診察御日記』
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